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白熱の元号論議「難陳」が続いた1000年 「元号」「日本年号史大事典」から(4)

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 世間の流行にも通じていなかればならなかった。「保安」(1120年)には文章博士兼式部大輔という大権威から「長仁」という本命案が出された。中納言の藤原宗忠は「最近流行している散楽法師に長仁という名前の芸達者がいる。元号にすれば世間が嘲弄するだろう」と退けた。タレント名をそのまま元号には採用できないというわけだ。散楽は民間のこっけいな動作や曲芸を主とする芸能だ。

「弓」が入っているために却下された「弘保」

 時代の変革期には、元号も無論影響を受ける。「元暦」(1184年)は源平の争いがピークを迎えようとしている動乱の時代だった。有力候補の「弘保」は広く大きく保つという良い意味だったが「弘」に「弓」の字が入っているのは不吉として却下された。公卿らは戦乱には敏感だった。

 よく言えば漢字文化におけるアカデミックな知的論争、有り体に言えば最強クレーム技術の競り合いで、元号が決められきたとも言えそうだ。難陳は基本的に1日で終了するが「適当な候補がない時は日を改めるケースもあった」と久禮氏。

 院政の時代には元号案が固まっても、院の御所へ意向を確かめなければならなかった。「上皇からの返事を待っている時間は手持ち無沙汰で退屈だったようだ」と久禮教授は指摘する。時間つぶしに前に却下された元号案はどこが悪かったか、皆で再検討することもあったらしい。

 鎌倉時代は最も改元が行われた時代で、約150年間に48もの元号が生まれた。難陳に参加する公卿も増える傾向にあった。「寛喜」(1229年)には史上最多の14人が参加したため、論議は特に紛糾したようだ。その場にいた蔵人の広橋経光は「会議の場はケンカのようで、自分が何らかの利益を得ようと、街角のにぎわいのような騒々しい議論が行われている」と日記に記した。

 大歌人の藤原定家も難陳について「漢字を書くことすら、ままならない教養の無い連中が猿楽のようにしゃべっているだけだ」などと手厳しかった。「建保」(1213)の元号も「読み方が献宝(=ワイロ)に通じる」とくさした。

 ケンケンガクガクの議論は時間のムダが多いと思ったのか、室町時代から戦国、江戸時代にかけては、事前に打ち合わせておいて、当日は儀礼的に難陳を行うようになっていった。それすらもムダと考えたのだろう、合理主義者の岩倉具視は難陳を廃止して「明治」を決めた。これも、一種の働き方改革かもしれない。

 しかし、明治の皇室典範では天皇の諮問機関である枢密院が年号の検討を行うことになり、「大正」「昭和」改元の際には難陳同様の議論が行われたようだ。

 難陳の約1000年間(推定)の歴史で最強のディベーターを挙げるとすれば、平安末期の左大臣・藤原頼長にとどめを刺す。「天保」を「一大人只十」と分解したクレーム術は、芸術的とさえ言えるかもしれない。

 久禮氏は「しかし頼長は左大臣で議論をまとめる立場。議長役が自らの知識をひけらかして議論を長引かせたため、当時の評判は悪かっただろう」と指摘する。2年後の保元の乱での敗死は、ここらあたりに遠因があったのかもしれない。

 今回の有識者懇談会には幅広い各界の分野からメンバーが入るという。4月1日は21世紀らしい洗練された難陳が期待できそうだ。

(松本治人)

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