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白熱の元号論議「難陳」が続いた1000年 「元号」「日本年号史大事典」から(4)

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 山中伸弥・京大教授や作家の林真理子さんら、新元号の「有識者懇談会」メンバーとされる人々は、4月1日に原案に対して意見を求められる。中国古典や国文学の大権威が、知恵を絞って作成した元号案を判定するのだから大変だ。平安時代以降の改元選考の際には「難陳」と呼ぶ、元号案について一つ一つ意見を述べる議論の場が朝廷にあった。言論の自由も民主主義もない時代に、参加した公卿は官位に関係なく自由に意見を闘わせ、時にはケンカになることもあったという。久禮旦雄・京都産業大准教授に聞いた。

「天保」は「一大人只十」だから不可

 昭和の大ベストセラー作家・吉川英治の「新・平家物語」には元号を選定するシーンがある。

 「天寿はどうでしょう」「いかんなあ。異国の隋朝にも議せられた年号だよ」 「承宝は?」「承は止まるという意味にも通じる。義、宝、位。すべて止まるは不吉だ」 「応暦では?」 「何か、次の新帝を待つようじゃないか。おもしろくない」 「天保はいかが?」「文字を分解してみたまえ。一大人只十(付き従う臣民がたった10人)となる。用いるべからずだよ」 「久寿ならば?」「久は柩(きゅう)に通じるが、年号に反音は差し支えないとしてある。ま、この辺かな」――。

 久禮准教授は「実際の久寿(1154年)決定の議論を再現したもの」と語る。元号案にクレームを付けていたのは当時の左大臣・藤原頼長だった。

 平安時代には新元号決定の手続きが制度化された。(1)天皇の勅命を受けて、大臣が文章博士や式部大輔ら学者に「年号勘文」(候補案)の提出を命じる。(2)「改元定」の招集を受けた公卿らは事務方トップが読み上げる個々の勘文の適否を述べ議論する(難陳)(3)2、3案に絞って奏上(天皇に報告)(4)天皇は重ねて1案に絞るように命じる(5)議論再開。1案を再び奏上(6)天皇はそのまま認め、詔書の策定を命じるーー。

 ハイライトは論難と陳弁を意味する難陳で、久禮氏は「中国や日本の先例から、時には言葉遊びのようなものまで飛び出して議論が行われた」としている。台本なしの真剣勝負だ。平安貴族は自らのプライドをかけ知性や教養を総動員して意見をぶつけ合った。

 難陳では、知識人としての深い教養のみならず、議論のテクニックも不可欠だった。「天仁」(1108)では、「読み方が仏教で説く天人(天界に住んでいる衆生)に通じるので良くない」という意見が出た。左大臣の源俊房は逆手にとって「天人は仏教で説く多楽(苦しむことがない)の境地にあると言われている、むしろ縁起が良い」と反論して通してしまった。

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