「令和」の時代を考える

藤原道長が押し込んだ元号「寛仁」 「元号」「日本年号史大事典」から(3)

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 元号を決めることは、日本でも中国でも極めて重要行為で「時」を支配するのと同じ意味を持つと見なされた。だからこその天皇大権だったのだが、幼帝の即位などが増えると、摂政や大臣ら時の権力者が介入するようにもなった。平安時代には、朝廷内の微妙な人間関係も新元号の選定に影響した。所功・モラロジー研究所教授らと「元号」(文春新書)、「日本年号史大事典」(雄山閣)を著した久禮旦雄・京都産業大准教授に聞いた。

「長徳」は「長毒」、嫌われた元号

 ごく稀(まれ)に、最初から忌み嫌われた元号がある。そのひとつが平安時代の「長徳」(995~999)だ。正暦年間に全国にまん延した疫病を打ち払うための改元だったが、貴族間で大変な不評だった。ある参議は「長徳は『長毒』に通じる。徳の時を使った元号は過去に『天徳』があるが、疫病が流行し内裏が焼失した」と散々にけなした。

 実際、関白の藤原道隆は長徳へ改元して2カ月後に死去した。代わった弟の道兼も、すぐ病気に倒れ「七日関白」と呼ばれた。左大臣、大納言、中納言らも疫死しており、久禮助教授は「国政を担う公卿の大半が不在という異常事態が起きた」と語る。結局、長徳は5年間続くが疫病は収まらず「なかなか改元が行われないのを『世間みなこれを奇となす』と貴族の日記に書かれるほどだった」と久禮氏。

 史上稀にみる不運な元号だったが、一人だけ幸運が舞い込んできた人物がいた。摂関政治の全盛期を代表する藤原道長(966~1028)である。亡くなった道隆・道兼の弟で権大納言だった道長は、長徳元年5月に内覧(大臣の地位にいない者による関白の職務代行)、6月に右大臣に昇進した。道長は甥(おい)らとの権力闘争にも勝って翌年7月に左大臣となり、トップに上り詰めた。久禮氏は「元号の決定に関わることができることが、権力を握っていることの象徴と考えられており、道長は終生元号にこだわりをみせた」と指摘する。

 「寛仁」が道長お気に入りの元号だった。出典は「漢書」で、漢の高祖をたたえた「寛仁愛人」などからの言葉だ。長徳、長保へと移って6年目の「改元定」(1004年)では、公卿の意見が最初は「寛仁」にまとまりかけた。しかし最後に左代弁の藤原忠輔が「一条天皇の名前は『懐仁』なので、同じ字を用いるタブーに触れる」と言い出し土壇場で「寛弘」に変更された。

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