「令和」の時代を考える

元号をレベルアップした平安京の天皇 「元号」「日本年号史大事典」から(2)

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 安倍内閣が4月1日に決定する、248番目の元号の選考過程が明らかになっている。事前に3案程度に絞り、有識者の「元号に関する懇談会」や衆参両院の正副議長への意見聴取、全閣僚会議を経て、新元号を定める政令を閣議決定する。政府が当日中に発表する段取りだ。ところで、古代の日本では元号を決める権限を持つのは天皇ただ一人。それだけに、選定にこだわった天皇も少なくなかった。所功・モラロジー研究所教授らと「元号」(文春新書)、「日本年号史大事典」(雄山閣)を著した久禮旦雄・京都産業大准教授に聞いた。(写真は東山から見た現在の京都市)

天皇自身が候補案を出した平安時代

 「一世一元」を制度的に決めた明治以前に、元号を変える理由は(1)新天皇の即位による「代始(=即位)改元」(2)縁起の良い奇跡を記念する「祥瑞(しょうずい)改元」(3)自然災害や戦乱が起きたのを一新する「災異改元」(4)干支(=えと)で大きな変革が起こる巡り合わせの年に差し替える「革年改元」――がある。元号の平均年数は5年あまり。ただ最高レベルの学識経験者が複数の元号案を作成し、国政を担う大臣がその中から絞り込んで決める仕組みは、現代とそう大きくは変わらない。

 久禮准教授は「天皇は、選定結果をそのまま追認するのが基本だが、平安時代には内容に納得いかないと差し戻した」と説明する。醍醐天皇(在位897~930年)は「延喜」から改元する際に、元号候補に満足せず自ら漢籍である「文選」の「白雉」から引用して「延長」(923年)と決めた。醍醐天皇は摂政・関白をおかず天皇中心の政治を目指していたという。

 村上天皇(在位946~967)も「応保」からの改元で、最初に提出された案を却下した。久禮氏は「村上天皇は、過去に未採用だった元号案を示し、その中から選ぶように命じた」と話す。その結果決まったのが「康保」(964年)だ。「天皇自身が臣下からの候補を不合格にして、自ら候補作を示したケースはたびたび確認できる」と久禮氏。

 そうした意欲的な古代天皇の中で、後世にまで一番大きな影響を与えたのは、平安京への遷都で知られる桓武天皇だという。久禮氏は「元号を知的にレベルアップさせた天皇」と高く評価する。動物など即物的なものを示す漢字を用いず、元号に抽象的な政治理念をこめたからだ。

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