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「3・1」予定された挫折 予期せぬ展開 朝鮮独立への「三・一運動」100年を読み解く(中)

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 1919年に朝鮮独立を求める「三・一運動」が始まったとき、日本の首相だった原敬は日記に「今回の事件は内外に対し極めて軽微なる問題となすを必要とす」と記した。朝鮮公使のキャリアを持つ原には、何かしらイヤな予感があったのかもしれない。本来ならば平和的な請願のみで終わり、要求が実現しないのは独立運動を指導した当初メンバーも折り込みずみだった。しかし現実の展開は、予想を超えて朝鮮全土のみならず国際的な闘争にまで広がった。「世界史の中の近代日韓関係」(慶応義塾大学出版会)の著者である長田彰文・上智大教授に聞いた。(写真はパリには残る「大韓民国臨時政府パリ委員部庁舎跡」の標識)

宗教界代表が主導した対決色薄い「独立宣言書」

 1910年の日本の韓国併合から9年。寺内正毅、長谷川好道と陸軍大将キャリアの朝鮮総督が続き、強権的な憲兵を駆使する「武断政治」に、抑圧された朝鮮民族の不満は鬱積していたという。最後の朝鮮国王、初代の韓国皇帝である高宗の葬儀に合わせて、独立の誓願を出す計画を立てたのは天道教、キリスト教、仏教の宗教界の代表ら33人だった。長田教授は「葬儀のためソウルへ参集する数十万人に独立回復をPRすることが狙いだった」と指摘する。

 独立請願の動きに追い風となったのが、ちょうど同時期にパリで開かれていた第1次世界大戦の講和会議。注目されたのは理想主義的な米ウィルソン大統領の提唱する「民族自決主義」の思想だった。「戦後の新たな世界秩序を構想するウィルソン大統領の『十四か条の平和原則』は、朝鮮内のいわゆる御用新聞でも普通に報じられ、朝鮮人社会のリーダー層を強く揺さぶった」と長田氏。

 ただ当初の「三・一運動」を指導した宗教界の代表らについて、長田氏は「彼ら自身が、成功するとは全く考えていなかった」と指摘する。カナダ人宣教師らも見込みがないから、中止するよう説得したという。代表らが独自に作成した「独立宣言書」は、日本との対決色が薄く、抽象的な表現の多いものだった。3月1日にソウル市内の中華料理店で読み上げ、その後は自ら当局に連絡して逮捕された。

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