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最後の朝鮮国王、バランス外交の失敗 朝鮮独立への「三・一運動」100年を読み解く(上)

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朝鮮独立運動の発端となった「三・一運動」から3月1日で100年。韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権は大規模な式典を予定している。この「三・一運動」の直接のきっかけとなったのは最後の朝鮮国王、高宗(1852~1919)の葬儀だった。帝国主義時代の全盛期にあって、この王様は、なすすべも無く吸収併合されてしまったかにみえる。しかし在位時代は海外の列強を競わせるバランス外交を展開していた。国際情勢が急展開する東アジアで、かつての朝鮮情勢を把握しておくことは、今後のビジネスにも役立つだろう。高宗の外交テクニックと失敗の背景を「世界史の中の近代日韓関係」(慶応義塾大学出版会)の著者である上智大学の長田彰文教授に聞いた。

「以夷制夷」の外交で各国のバランスを取る

 高宗が国王に就いたのは11歳の1863年。急死した前国王の哲宗に実子が無く、他人に近い遠縁の皇族からの戴冠だった。長田教授は「後見役となった父親の大院君は封建的な性格で、対外的には徹底的な異国排除の姿勢を取った」と語る。66年に江華島に侵攻したフランス艦隊を撃退し、71年にも米アジア艦隊を持久戦に持ち込んで撤退させた。「鎖国攘夷(じょうい)の不動の意志を誇示したが、そのために日本と比べて開国が遅れてしまった」と長田教授。

 成人した高宗は、妻の閔妃と大院君との対立を抱えつつ、自国の近代化を目指した。お手本となったのは明治維新の日本だ。欧米各国と次々と条約を結ぶのは1880年代に入ってからで、日本をけん制するため宗主国の清(中国)も欧米間をあっせんした。ただ朝鮮半島は中国、ロシア、日本の勢力圏が接する地政学上の要衝で、各国の利害は複雑に錯綜(さくそう)していた。朝鮮の国際社会のデビューは「米国の研究者の言葉を借りれば、陰謀の大海に朝鮮を浮遊させる結果となった」と長田教授は言う。

 高宗の政策は、外国を利用して他の国を抑え、自国は戦わずに安全を図る「以夷制夷(いいせいい)」というものだった。清国の勢力が優勢となると対ロ接近を図り、第1、2次朝露密約(85、86年)を結んだ。日清戦争(94年)後には再びロシアに接近した。今度は清国に代わり勢力を拡大した日本のけん制が狙いだった。

 閔妃が日本軍に暗殺された後の96年には、高宗はロシア公館に移って親日派を一掃した。97年に国名を大韓帝国に改め、権力を集中させて初代皇帝に就いた。最後の朝鮮国王で初代の韓国皇帝というわけだ。木浦、鎮南海などの開港・開市を勧め、長田教授は「各国を引き入れ相互にけん制させる狙いがあった」としている。

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