ビジネス教養としてのグルメ

シャンパン340年史を彩る辣腕経営者 「シャンパン大全」から(4)

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 皇帝ナポレオンには「シャンパンは勝った時には飲む資格があり、敗れた時には飲む必要がある」という名セリフがある。仏シャンパーニュ地方の地酒だったシャンパンが、今日の名声を勝ち得るまでには、さまざまな辣腕経営者の奮闘があった。「シャンパン大全」(日本経済新聞出版社)を著した山本博・弁護士に聞いた。

ナポレオン失脚後のロシア宮廷に売り込む

 山本氏は「修行僧ドン・ペリニオンが泡を瓶にとじ込めるシャンパンを偶然発明したのは1680年頃」という。初期に活躍したのがリュイナール一族だ。服地商だったニコラが、最も古いシャンパンハウスを設立したのが1729年。叔父はドン・ペリニオンに協力した高僧のドン・ティエリーだった。ニコラの後継者のクロードは、ルイ15世の経済改革に乗って事業を拡大した。

 クロードの長男イレネーは「モエ」家のジャンに負けず劣らず、ナポレオン一家に取り入り、ジョセフィーヌ妃らが愛飲したという。ちゃっかり反ナポレオン派ともつながり、タレーラン外相もリュイナールびいきだった。「会議は踊る」といわれた1815年のウィーン会議では、リュイナールのシャンパンが宴会で一方の主役を務めたに違いない。

 後継者のエドモンドは渡米してホワイトハウスを訪問し、当時のジャクソン大統領に自社のシャンパンを贈って販路を開拓した。山本氏はリュイナールのシャンパンを「保存によって質の落ちやすいシャンパンの中でも特に持ちが良く、すてきな深みを持つ香りと柔らかな口当たりが楽しめる」と評価する。

 「豪腕を振るった女性経営者が多かったのも、シャンパン史の特徴だ」と山本氏。その代表がヴーヴ・クリコ・ポンサルタンだ。「ヴーヴ」は未亡人の意味。夫のフランソワ・クリコはシャンパン専業を始めた矢先の1803年に死去。ポンサルタンは27歳で夫の遺志を継いだ。3歳の娘がいたという。

 成功のカギはロシア宮廷をお得意にしたことだ。当時のロシアにとって、フランス宮廷文化は憧れの的だった。ナポレオンの東欧諸国占領中にも、密かにロシアから注文をとりモスクワ遠征失敗をみると、間髪を入れずに出荷した。今日でもロシア人のシャンパン好きはよく知られている。

 未亡人は技術革新にも貢献した。瓶内で二次発酵したシャンパンの、酵母のオリを下げるために使う「ピュピートル」を開発したのだ。それまでは無理に瓶を揺さぶったり、ひっくり返したりしてオリを落とす非効率なものだった。未亡人が事業を継いだ時に年間5万本だった売上実績は、死去した66年には300万本にまで拡大したという。山本氏は「ソフトな中に全体からにじみ出るような魅力はあるシャンパン」としている。

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