30の名城からよむ日本史

信長・秀吉・家康が「執着」した大坂城

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「西の丸天守閣」を築いた徳川家康

 家康も大坂城にこだわった一人だ。秀吉没後の1599年(慶長4年)には、政務をとっていた伏見城から秀吉の遺言を無視して大坂城に強引に入ってしまう。しかも本丸天守閣の秀頼に対抗するかのように、自分が居住する西の丸にも天守閣を設けた。「家康様が天下様になった」と世間で噂されたという。この西の丸天守閣建設は、関ケ原の戦いの際に石田三成らが糾弾する家康の罪状のひとつに挙げられた。

 安藤氏は「後に秀頼の大坂城を攻略するのに、家康は周到な準備を重ねた」と解説する。まず畿内の篠山城、亀山城、姫路城を大改修し、さらに名古屋城を新たに築城して徹底的な「大坂城包囲網」を完成させた。それでも「大坂冬の陣」(1614年)では落城させられず、和睦で総堀を埋め立ててからの「大坂夏の陣」(15年)が必要だった。

 大坂を直轄領にした2代将軍・徳川秀忠は大坂城の修復を企て、堀の深さと石垣の高さを2倍にするよう命じたという。安藤氏は「秀吉のイメージを覆い隠したい意図から天守閣も巨大化した」という。大改造した大坂城には城主は置かず、交代制の城代という形で有力譜代大名に当たらせた。徳川幕府がいかに大坂城を重視かつ警戒していたかが、うかがわせる。

 3代将軍・家光の弟である忠長は大坂城か所領百万石を希望したという。同時代の一次史料では確認できないが、もし本当ならば幕府にとって最も危険な言辞だっただろう。後に忠長は、徳川一族の中では異例の切腹を余儀なくされた。

 大坂城を舞台に歴史を作りあげたのは権力者ばかりではなかった。今日から約170年前の1837年(天保8年)2月19日に城下で起きた「大塩平八郎の乱」だ。大坂東町奉行所の与力の家に生まれた大塩は、「知行合一」をモットーとする陽明学者でもあり、自宅で「洗心洞」という私塾を開いていた。「知識は行動を伴ってこそ完成するとして、秩序よりも行動を重視していた」と安藤氏。

 折しも「天保の大飢饉(ききん)」が深刻な社会不安を醸成していた。事態を危険視した大塩は町奉行所に「窮民救済」を建言するが無視された。米不足にもかかわらず、町奉行所は関西の米をできるだけ江戸に送るよう奨励していた。

 大塩は門弟の与力、同心に近隣の農民たちも加え19日早朝に約300人で決起した。城下の天満一帯を焼き払った後、船場で「奸商」と糾弾した豪商宅も次々と焼き打ちにした。大坂市中の約5分の1が焼失した。鎮圧されたのは午後4~5時ころだったという。

 「大坂の陣以来の市街戦は小競り合い程度だったが幕府や社会に与えた衝撃は大きかった」と安藤氏は言う。大塩の乱は支配者側の与力や同心が体制を批判して蜂起したものだからだ。武士と農民が手を組んで立ち上がったことも幕府には驚きだった。「大坂の陣は幕府の礎を固める戦いだったが大塩の乱は幕府の土台を揺るがした」と安藤氏。31年後の「鳥羽・伏見の戦い」に敗れた徳川慶喜は単独で脱出し、幕府軍の本営だった大坂城は取り残された形になった。大坂城の天守閣は直後に、日本の近世史を見届けたかのように焼失した。

(松本治人)

キーワード:経営・企画、経営層、管理職、プレーヤー、経営

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