30の名城からよむ日本史

信長・秀吉・家康が「執着」した大坂城

記事保存

日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。

 大坂城ほど天下人たちのエピソードが豊富な城もないだろう。織田信長が構想し、豊臣秀吉が築城し、徳川家康が入城した。その家康が落城させ、秀忠(2代将軍)が再建し、慶喜(15代将軍)が焼失させた。「30の名城からよむ日本史」(日本経済新聞出版社)の著者・安藤優一郎氏は「大坂城を舞台に繰り広げられた人間ドラマが、そのまま歴史上の重要な出来事となってきた」と指摘する。

「大坂には信長の後継者が入るべき」と秀吉

 最初に着目した覇者が、織田信長だった。戦国時代の大坂は大小の河川が流れる要害の土地だ。さらに船便が発達しており、西へは瀬戸内海から外洋に出られ、東国からは物産が集積していた。「大坂城全史」(ちくま新書)の中村博司氏は「信長は地政学的な観点から大坂という土地を高く評価した」と語る。

 信長は、まず大坂に本拠を置く浄土真宗本願寺に資金提供を要求し、さらに退去を迫った。軍資金の要求には逆らうことなく従った本願寺顕如も、転封命令には激怒した。顕如は全国の信徒に信長打倒を呼びかけ、戦国大名らの反信長包囲網の中心として激しい攻防を繰り広げた。一時的に両者は和睦するがすぐに決裂し、最終的に本願寺が退去したのは1580年だった。本格的な巨城を築く時間は信長にもうなかった。2年後に「本能寺の変」が起こったからだ。

 信長の大坂城構想は、織田軍団のトップ層に情報共有されていたようだ。明智光秀を討った秀吉は、早くから「大坂は信長の後継者である天下人が入るべき」としていたという。中村氏は「秀吉は大坂築城に、安土城のケースをそっくりまねた」と分析する。信長は1575年に、嫡子の信忠に居城の岐阜城を譲ってから安土城建設に着手した。秀吉も賎ケ岳の戦いで柴田勝家を倒した後、本拠地の姫路城を実弟・秀長に譲ってから83年に大坂築城を開始した。

 中村氏は「信長の後継者であることを強く意識する秀吉が、新たな中央政権の樹立を狙う地位に立ったことを宣伝するために、信長と同様の演出をもくろんだ」としている。同時代の武将らには最も効果的だっただろう。本丸に入城したのは翌84年(天正12年)だが、優れた画家や建築家が最後の最後まで自作に手を入れるのと同じように、秀吉は最晩年に至るまで大坂城を手直しし、強化し続けた。

閲覧履歴

    クリッピングした記事

    会員登録後、気になる記事をクリッピングできます。