30の名城からよむ日本史

世界遺産・姫路城が260年守った人事異動の鉄則

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幕末に「朝敵」となるが無血開城

 さらに抵抗線を3重のらせん形に設計し、三重構造の大手門から天守閣までは複雑な迷路になっている。曲がりくねって広くなったり狭くなったり、下り坂になったりUターンさせられたりして真っ直ぐに進めない。櫓(やぐら)から天守まで巧妙に石落としやはざま、武具掛けなどを配置してあり、白壁のしっくい造りも耐火性に優れている。壮麗な見かけとは裏腹に実戦本位の城なのだ。

 「豊臣家滅亡後も山陽道の要衝として、姫路城の重要性は変わらなかった」と安藤氏。西国大名の監視役としての役割だ。1616年の輝政の死後、家督を継いだ光政がまだ8歳だったため、2代将軍の秀忠は国替えを命じた。幼年では西国の押さえは務まらないからだ。交代した城主は本多忠政。「徳川四天王」忠勝の嫡男で、秀忠にとっては娘婿の父にあたる。

 39年には家康の孫の松平(奥平)忠明が転封。以後は松平(結城)―榊原―松平(結城)―本多―榊原―松平(結城)―酒井と明治維新まで続いた。いずれも徳川一門の親藩か譜代の重鎮大名だ。

 安藤氏は260年間続いた姫路城主の人事原則を(1)姫路藩主に幼少の者がつくと幕府が転封を命じる、(2)転封先は越後の村上、陸奥の白河、上野の前橋などで3大名などの玉突き移封ではなく入れ替わりが基本、(3)名門であることが原則なので、姫路城主になれる大名家は自然と固定化された――と分析する。「同じ家が2度、3度と入封した」(安藤氏)

 幕末の酒井忠績は徳川幕府最後の大老で、将軍に忠誠を尽くす一方、勤王派の制圧に力を振るったという。継いで藩主になった実弟の酒井忠惇も、老中として「鳥羽・伏見の戦い」に出兵し、敗北後は徳川慶喜に随行して江戸に戻った。この展開では姫路藩が会津、桑名両藩とともに討伐対象の「朝敵」となったのは、むしろ当然だろう。新政府軍は城主不在の姫路城を目指して進撃した。

 姫路で留守を預かっていた家臣団は、打つ手がなく、結局無血開城するほかなかった。降伏勧告したのは、池田輝政の子孫にあたる備前藩だった。城主が「常在戦場」の気構えで西国大名に目を光らせていた「西の江戸城」は、ついに軍事施設としての真価を発揮する機会がなかった。姫路城ほどの名城にして、やや物足りなさを感じるとすれば、この点かもしれない。

(松本治人)

キーワード:経営・企画、経営層、管理職、プレーヤー、経営

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