30の名城からよむ日本史

世界遺産・姫路城が260年守った人事異動の鉄則

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 数ある日本の名城の中でも、豪壮華麗な姫路城が別格であることは、恐らく異論が出ないだろう。現存天守があり(弘前、松山など12城)、国宝に指定され(松本など5城)、1993年に法隆寺とともに認定された日本初の世界遺産でもある。白鷺(しらさぎ)城とも呼ばれる優美な姿は、山陽新幹線の車窓からでも十分楽しめる。しかし目まぐるしく城主が交代した歴史は、あまり知られていない。「30の名城からよむ日本史」(日本経済新聞出版社)の著者、安藤優一郎氏に聞いた。

外様大名を監視する「西の江戸城」

 「姫路城が歴史の表舞台に登場するのは、羽柴(豊臣)秀吉が入城してから」と安藤氏。1580年、秀吉は織田家の中国方面軍の本拠地として腹心の黒田孝高(官兵衛)から譲り受けた。82年の本能寺の変直後、秀吉は遠征先の備中高松城からわずか2日で姫路城に戻り、態勢を整えて明智光秀を打倒した。姫路城は、天下統一の足かがりをつかんだ出世城なのだ。秀吉後の城主は弟・秀長、義兄・木下家定と親族で固めた。

 城主が頻繁に変わるのは1600年の関ケ原の戦い以降だ。明治維新まで10家(再封を含む)、32人が城主となった。同じ時期に徳川将軍は家康から慶喜まで15人にすぎない。最初に入ったのは家康の女婿にあたる池田輝政で、三河吉田城(15万石)から52万石への抜てきだった。

 関ケ原の戦い後に、家康は50人を超える大名の領地を没収する大リストラを断行したが、東軍の勝利は福島正則ら豊臣家ゆかりの大名の奮戦に負うところが大きい。近畿以西に信頼のおける親藩や譜代大名を配置することまではできなかった。

 安藤氏は「外様ながら準徳川一門と言うべき池田輝政に大封を与えて、姫路城を大改修させた」と語る。「外様大名で占められた西国の押さえの城であり、豊臣家押さえの城だった」(安藤氏)。輝政は次男や三男にも領地を与えられ、池田一族は実質100万石。実質的な「西国将軍」の誕生だ。

 安藤氏は「姫路城は西の江戸城と呼んでいい」としている。軍事要塞としてもずば抜けており、当時の最新の築城テクノロジーを凝縮させ防御力に優れるという。5層7階建ての大天守は総重量5700トン。それを囲むように3つの小天守が連結する「連立式天守」は家康創建時代の江戸城と同じだ。

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