30の名城からよむ日本史

会津若松城が1カ月戦い抜いた原動力

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■1日に1万2千発の弾丸を作った女性陣

 1868年に始まった戊辰戦争は、同年3月の西郷隆盛と勝海舟との会談による「江戸無血開城」で大勢は決したが、戦火は収まらなかった。抗戦の姿勢を明確にした「奥羽越列藩同盟」に対し、新政府軍は東北、新潟方面に出兵していった。「目指す本丸は京都で薩摩・長州藩と鋭く対立した会津藩だった」と安藤氏。

 会津藩主の松平容保は、京都守護職として新選組を結成させるなど、幕末の政局を大きく動かしたキーパーソンのひとりだった。政略を次々に繰り出す徳川慶喜を軍事面で支えたばかりでなく、孝明天皇からも絶大な信頼を受けていた。倒幕を目指す薩長両藩にとって、会津藩は何度も煮え湯を飲まされた最大のライバルだった。戊辰戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦い以降は攻守ところを代えたものの、政治的にも心情的にも、会津藩がそのまま無傷のままでいることは許さなかっただろう。

 明治政府軍は、5月から列藩同盟を個別に攻略して会津若松城に迫った。政府軍を苦しめた長岡藩家老の河井継之助が戦死したのは8月16日で、同月23日に会津城下へ突入した。しかし会津藩は領境に出動していた主力軍を呼び戻す一方、藩士の母や妻、娘ら女性と子供まで城内に収容して徹底抗戦に出た。安藤氏は「城内の約5000人のうち600人以上が女性だった」と推定する。

 安藤氏は「女性に兵糧の炊き出し、負傷者の救護、弾丸の作製の3つの役目が課せられた」という。弾丸は紙で筒をつくり、弾と火薬を入れ、紙の上部をひねると完成だ。1日1万2000発、合計約19万発を製造した。城内に打ち込まれた弾丸まで拾い集めたという。子供たちにも毎日たこ揚げをさせた。城内に余裕があることを見せ付けるためだった。安藤氏は「女性や子供の必死の支えが、長期の籠城を可能にした原動力だった」と分析する。

 しかし大局的には勝てない戦いだっただろう。新政府軍は兵力増強を続け、9月には会津攻略軍が3万人を超えた。射程の長い最新鋭のアームストロング砲を駆使して天守閣などを直撃したという。一方の奥羽越列藩同盟は諸藩が次々と降伏。孤立無援の城は必ず落城する。会津藩は最後には城に火をかけるつもりだったという。しかし同志的存在だった米沢藩主の降伏勧告を受け、9月22日に白旗を掲げ、翌23日に開城した。

 明治維新はフランス革命やロシア革命などと違い、人命を無駄にしない「無血革命」だったとの説が根強くある。しかし国際日本文化研究センターの井上章一教授は、ベストセラー「京都ぎらい」で異論を唱えている。「江戸の無血開城で明治維新を語ろうという物言いは(中略)、江戸の身代わりとなって流されたであろう会津以北の血を、見ていない」という。さらに、幕末の会津藩の軌跡を、今日にまで伝えるのは会津若松城だけではない。京都の町並みには、幕末の会津がしのべる建物や組織が自然に目に入ってくるとしている。

(松本治人)

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