30の名城からよむ日本史

会津若松城が1カ月戦い抜いた原動力

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 白虎隊の悲劇を生んだ会津若松城の攻防戦は、日本の長い合戦史における終盤のクライマックスだ。幕末・維新の戊辰戦争では各地で籠城戦が繰り広げられたが、銃火力の著しい技術革新の前に、1日も持たずに落城するケースが多かった。その中で、会津若松城だけは1カ月も戦い抜いた。「30の名城からよむ日本史」(日本経済新聞出版社)の著者、安藤優一郎氏に聞いた。

政宗、氏郷らAクラスそろいの歴代城主

 伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝、加藤嘉明、保科正之――。戦国末期から江戸初期にかけての若松城(鶴ケ城)城主は「準天下人」のヘビー級ぞろいだ。会津地方が東北地方における政治、経済、軍事の要衝だった証拠でもある。もともとは芦名氏が14世紀後半に築いた黒川城が原型で、1589年に奥州制覇を狙う 伊達政宗が入城。しかし翌年には領地替えで豊臣秀吉に取り上げられた。代わって城主となった蒲生氏郷は織田信長の女婿で、その力量は豊臣秀吉が「自分に取って代わるかも」と恐れたほどの実力者だった。大々的に改修して鶴ケ城と名付けたのも氏郷だ。

 1598年には上杉謙信の後継者で豊臣家「五大老」を務める上杉景勝が、越後から移った。この上杉に対して徳川家康が会津攻めを企図したことが、関ケ原の戦いの発端となった。その後は再び蒲生氏が領有したが、江戸時代初期の1627年には「賎ケ岳の七本槍」のひとりで戦国生き残りの加藤嘉明が会津に転封された。城造りの名人の嘉明が天守閣を五層にし、現在の会津若松城の姿が決まった。

 最後に入城したのが、3代将軍・徳川家光の弟の保科正之だ。徳川将軍から松平の姓を与えられ、幕末まで継承した。正之は徳川時代における屈指の名君で、将軍への絶対的な忠誠を説いた家訓でも知られている。氏郷から正之まで、度重なるAクラス大名の移封は、時の最高権力者がいかに会津を重視していたかを物語っている。

 会津若松城は、さまざまに工夫し防御力のレベルが高い。北、西の出丸が天守などの位置する台地の下にあり、出丸を突破しようとする敵に対しては高低差を利用して攻撃できるように設計した。さらに防御施設の北出丸虎口は、出丸や櫓、隣接する出丸からの集中射撃が可能なように構築したという。会津藩の仮想敵国が、伊達家など北方の大藩だったことを思わせる。しかし会津若松城が実際に戦火を交えたのは、南から大挙北上してきたの明治新政府軍だった。

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