30の名城からよむ日本史

西郷が熊本城を落とせなかったワケ

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強襲するも城内に入れず、ついに断念

 本格的な攻勢は22日から始まったが、鎮台側の激しい砲撃で、西郷軍は城門まで肉薄しても城郭の一角に取り付くことができなかった。23日も攻撃を続行したが戦況は変わらず城内に攻め入ることができなかった。「結局、西郷軍は強襲による速攻を断念せざるを得なくなった」と安藤氏は語る。博多へ上陸した征討軍が戦力を増強しつつ熊本へ南下していたからだった。西南戦争の焦点は、熊本城攻防戦から最大の激戦地「田原坂」の野戦に移った。

 西郷軍の誤算の第1は、白兵戦に持ち込まれるとあっさり敗れる鎮台兵が、銃撃戦では西郷軍と互角以上に戦える技量を持っていたことだろう。しかもこの年の鹿児島県は50年ぶりの大雪で全体の進軍が遅れ、歩兵中心の攻城戦にならざるを得なかったという。熊本城の防御力を100%生かせる展開だったわけだ。第2に鎮台兵の士気も高かった。1年前の「神風連の乱」で、蜂起した士族に司令官を殺害されるという失態から、兵士として成長していた。

 しかし最大の原因は西郷軍自身にあったと安藤氏は分析する。「西郷軍の強襲で参謀長の樺山まで重傷を負ったが、全体の攻撃は統一が取れておらず各隊がバラバラに攻めているだけだった」(安藤氏)

 田原坂の攻防が続いている間も、西郷軍は熊本城に兵糧攻めや水攻めを試みた。熊本鎮台は糧食不足に苦しんだものの、極力消費を抑えることでしのいでいたという。3月20日に田原坂の攻防は政府軍の勝利に終わり、4月14日に征討軍別働第2旅団が熊本城内の突入に成功した。包囲していた西郷軍は囲みを解き、約50日ぶりに熊本城は解放された。

 「西郷は幕府を倒した成功体験から抜け出せなかった」と安藤氏は言う。作戦は部下に任せ、戦いのさなかに趣味のウサギ狩りも楽しんだという。対して大久保は、相手を逆賊として攻める、倒幕時に西郷が徳川慶喜に対してとった戦略をそのまま逆用して勝利した。「熊本城籠城戦は、日本式の城郭が軍事上の意義を十分に果たした戦いだった」(安藤氏)。

 現在の熊本城は、再び激しい揺れに見舞われても耐えられるようにする修復作業が続いている。天守閣全体の修復を終えて内部が見られるようになるのは21年春ごろの見通しだ。

(松本治人)

キーワード:経営・企画、経営層、管理職、プレーヤー、経営

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