30の名城からよむ日本史

西郷が熊本城を落とせなかったワケ

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 日本の城には、築城400年をすぎても今なお地元市民の精神的シンボルとなっている城郭が珍しくない。名将・加藤清正が築き、日本三名城にも数えられる熊本城もそのひとつ。西南戦争で西郷隆盛が攻めても陥落させられなかった「難攻不落」の代名詞的存在だ。2016年の熊本地震で大きな被害を被ったものの、熊本市は10月までに大天守の外観を修復し、一部の一般公開を再開する予定という。「30の名城からよむ日本史」(日本経済新聞出版社)を著した歴史家の安藤優一郎氏に聞いた。

■熊本鎮台の籠城作戦を楽観した西郷軍

 熊本城は、阿蘇の火砕流が堆積した「茶臼山」と呼ぶ丘陵に関ヶ原の戦いの頃から築城が始まり、1607年(慶長12)年に完成した。周囲5.3キロメートル、総面積98万平方メートルと巨大な城郭と広大で、大小天守をはじめ、櫓49、櫓門18、城門29で構成されていたという。「桝形の虎口を5段連ねたのは、家康の江戸城と同じだ」と安藤氏。3年前の地震でも震度7の揺れを耐えた「一本石垣」のように、当時最先端の築城技術を駆使していた。

 熊本城は日本国内における最後の戦い「西南戦争」の舞台だ。1877年(明治10年)2月、明治政府での政争に敗れ、帰郷していた西郷は鹿児島県士族(旧薩摩藩士)を中心に決起した。同6日の作戦会議では長崎で政府の軍艦を奪取しての東京・大阪上陸や熊本・長崎・大阪3方面進軍なども検討されたが、最後は全軍での熊本進撃に決めた。出発は15日だ。

 「西郷軍には『楽観』が支配していた」と安藤氏は言う。当時の熊本鎮台に司令長官は旧土佐藩士の谷干城、参謀長は旧薩摩藩士の樺山資紀だった。かつての盟友、親友であり、無血で熊本を通過できると踏んでいたのではないか。鹿児島県庁から熊本鎮台への「台下通過の節は、兵隊整列指揮を受けられるべく」とした通告文には、戦争開始の緊迫感が見られない。

 西郷軍は、通告文が拒否され籠城戦が決定的になっても、すぐ降伏させられると考えていたようだ。西郷軍は戊辰戦争を京都から北海道まで戦った歴戦の勇士ぞろい。一方の熊本鎮台は農民兵出身が基幹で、天守が失火で炎上してしまうハプニングにも襲われていた。さらに兵力でも約1万6千対約3500と西郷軍は圧倒していた。21日、熊本の通信局は「唯今戦争始め候」と、開戦を告げる第一報を東京に打電したという。

 一方の明治政府は、参議の大久保利通がリーダーシップを発揮し、素早い戦争態勢を組んだ。19日に征討軍派遣を決め、22日には熊本鎮台の援軍として天皇直属の近衛兵、東京・大坂鎮台から編成した第1、第2旅団が博多へ上陸した。25日には山県有朋参軍が第3旅団と共に博多に到着。征討軍総督の有栖川宮熾仁親王も川村純義参軍と共に26日に到着した。

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