30の名城からよむ日本史

函館・五稜郭の歴史が示す最新テクノロジーの賞味期限

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 北海道函館市の「五稜郭」は幕末・維新の戊辰戦争終焉(しゅうえん)の地だ。1869年(明治2年)に榎本武揚ら旧幕府陸海軍は五稜郭で明治新政府軍に降伏し、日本最初の西洋式城郭としての五稜郭の歴史は、わずか5年だった。

 五稜郭の敗北を「30の名城からよむ日本の歴史」(日本経済新聞出版社)の著者、安藤優一郎氏は「艦砲など火器の発達が築城当初の想定を上回ったため」と結論する。西洋式城郭は、幕府にとって蒸気軍艦や40斤砲などと同じく、先端技術のひとつだった。しかし最新テクノロジーほど革新のスピードが高まり、陳腐化もしやすい――。五稜郭の運命は、現代における技術開発の流れと二重写しにも見える。

 箱(函)館が開港したのは日米和親条約の翌年にあたる1855年(安政2年)。徳川幕府は諸外国の領事らと現地で交渉する奉行職を設けた。しかし2代目奉行の堀利熙は、その立地環境に強い不安を抱いたという。安藤氏は「奉行所は海に近いため軍艦からの砲撃を防げず、函館山に登れば外国人でも内部が一望できてしまう場所にあった」という。防御力増強を求める堀の上申は、老中の阿部正弘ら幕府首脳部に認められ、五稜郭の建設が決まった。

 新たな城塞計画に、日本の城に不可欠なはずの天守閣は存在しなかった。大砲の射程が延び、高層建築だとかえって攻撃目標となるからだ。「日本式の城郭は軍事施設としての意義を既に失っていた」と安藤氏。函館奉行所は渡航してきたフランス軍人を通じ、ヨーロッパで発達したヴォーバン式城塞を採用した。ヴォーバンはルイ14世に仕え、近代的な要塞の築城法を体系化した名将だ。

 ヨーロッパでも、石で築かれた中世の城壁は高い分だけ目標になりやすく、破断した石が多くの兵士を負傷させた。城壁は低く土塁で築くのが主流になった。その外側に堡塁と呼ぶ陣地を造り防御力を高めたのがヴォーバン式。「互いに擁護しあい、攻撃に際しては死角が生じないように設計された」と安藤氏は言う。

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