30の名城からよむ日本史

「織田信長の城」はなぜ廃城となったか

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 城を舞台にしてきた人間ドラマが日本の歴史を作る――。歴史研究者の安藤優一郎氏はそう説く。その典型的なケースが織田信長の城だろう。他の戦国大名を圧倒する絢爛(けんらん)豪華な「天下人の城」を築きながら、いずれも廃城という運命をたどった。「30の名城からよむ日本史」(日本経済新聞出版社)から読み解いた。(写真は現在の岐阜城)

日本の城造りのイノベーターだった信長

 石垣に瓦ぶきで高層の天守閣……といった現代の城のイメージをつくったのは信長といわれる。「信長は天下統一を進める過程で居城を次々に変えてきた」と安藤氏。桶狭間の戦いに出陣した清洲城から小牧山城、岐阜城、さらに安土城だ。信長は本拠地を移すごとに、城郭づくりに革命的なイノベーションを加えていった。

 小牧山城では石垣造り、岐阜城では金箔瓦を使った「見せる城」、安土城では地上6階・地下1階の壮麗な天守閣だ。信長の城は後世の城郭の手本となった。最新の研究では、石垣も天守閣も実は信長のオリジナルではない。しかし戦国から全国統一へ向けて、信長の城造りには本質的なメッセージがあり、だからこそ全国へ普及したといえる。

 信長の城で最も有名なのが安土城だろう。しかし、現在はわずかな遺構を残すのみになっている。1576(天正4年)年に築城を開始した安土城は79年(同7年)に完成するが、3年後の82年(同10年)には焼失してしまう。明智光秀が信長を奇襲した「本能寺の変」だ。混乱の中で安土城の壮大な天守は炎に包まれ、石垣などを残し灰じんに帰した。覇権は光秀を滅ぼした羽柴(豊臣)秀吉に移った。

 安藤氏は「その後、安土城の再建工事は進められたものの、いつしかストップしてしまう」と指摘する。秀吉は安土城の近隣にある八幡山に着目した。本能寺の変後の1585年、八幡山城の築城が始まった。

 城下町を造成する過程で、旧安土城からは様々な建物が移築された。一例が現存する本願寺八幡別院。八幡山城は安土城をモデルとし、商人や職人も安土から八幡山に移して町作りを進めさせたという。「修復が進められていたはずの安土城の廃城を意味していた」と安藤氏。

 安藤氏は「天下人の座を目指す秀吉にとって信長の存在をイメージさせる城郭は消してしまったほうが良かった」と分析する。秀吉は八幡山城主に甥(おい)の豊臣秀次を据えた。秀吉の後継者と目された関白秀次だ。現在の近江八幡市には、秀次が名君だったとの評価も伝わっている。

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