30の名城からよむ日本史

「織田信長の城」はなぜ廃城となったか

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関ケ原の戦いの後に岐阜城・名護屋城も廃城

 しかし95年(文禄4年)に切腹を命じられると、秀次の住んでいた京都の「聚楽第」が徹底的に破却されたばかりではなく、居城だった八幡山城も廃城とされた。当時の城主だった京極高次には、わざわざ近くの大津城が代わりに与えられたという。安藤氏は「秀次のイメージを消し去りたいという秀吉の強い意志が感じられる」という。

 岐阜城はすぐには廃城とならなかった。「天主や本丸が焼失していた安土城は廃城に好都合だったが、岐阜城はそのまま残っていたため」と安藤氏はみる。城主は織田信孝、池田元助、同輝政、羽柴秀勝、織田秀信が相次ぎ城主となった。秀信は信長の嫡孫だ。

 しかし1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いで秀信は石田三成の西軍に属し、徳川家康を盟主とする東軍の先鋒(せんぽう)隊と対峙した。織田軍は野戦決戦に打って出たが大敗、秀信は降伏・開城した。関ケ原の戦いで勝利した家康は、戦後処理で多くの大名を転封させる過程で岐阜廃城を決めた。

 家康は近隣に新たな加納城を築く際に、岐阜城の天守や石垣などを移築したという。安藤氏は「安土城と八幡山城の関係と全く同じで、天下人を目指していた信長の存在を想起させる城郭を、家康は消してしまいたかったのだろう」としている。

 家康は「秀吉の城」も廃城にしている。そのひとつが佐賀県唐津市の名護屋城だ。秀吉の朝鮮出兵の最前線として1592年に玄界灘を臨む海岸べりに完成した。諸大名の陣屋は約130、全国からから動員された将兵は合計30万人だったという。軍需・生活物資を供給する商人や建築工事に従事する職人らも集まり、城下町は約17万ヘクタール、人口も20万人を超えた。しかし関ケ原後「名護屋城は廃城にとどまらず徹底的に破壊された」と安藤氏。

徳川幕府が推進した大坂城の大改造

 廃城でなくとも100%改造されたのが大坂(阪)城だ。1615年(元和元年)の「大坂夏の陣」で落城したが、同地を幕府の直轄領とした2代将軍・徳川秀忠は城の大改造に着手。城造りの名人とされた藤堂高虎に掘りの深さと石垣の高さを2倍にするように命じた。秀吉時代の大坂城を覆い隠すように焼け落ちた建物の上に盛り土がなされ、巨大な石垣が積み直されたという。

 安藤氏は「豊臣家から天下人の地位を奪った徳川家としては豊臣家の存在をイメージさせる大坂城が秀吉時代のままに残っていては都合が悪かった」という。大改造後は城主を置かず、有力譜代大名に城代という形で預けた。1~2万石級の小大名から任命された大坂定番(2人)、加番(4人)、旗本から構成される大番組が2組赴任するという体制だ。

 大改造後の大坂城は、徳川幕府にとって政治・軍事の特別に重要な拠点であり続けた。大坂城代のポストは無事に全うすると、次は朝廷や西国大名の監察にあたった京都所司代、さらに国政の老中へと昇進するエリートコースだった。幕末の鳥羽・伏見の戦いで最後の将軍・徳川慶喜が拠点としたのも大坂城だった。天下人の城の歴史は、覇者本人のみならずその後の人々の政略や思惑もくっきり映し出している。

(松本治人)

キーワード:経営・企画、経営層、管理職、プレーヤー、経営

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