30の名城からよむ日本史

「家康の城」で読み解く戦略・統制・人事

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 世界遺産、国宝、天空の天守台……。城ブームが広がっている。交流サイト(SNS)にお気に入りの城の写真を投稿するなど、城巡りの新たな楽しみ方が次々に登場し、世代を超えて日本の城への関心が高まっている。他方、城は江戸時代が終わるまで大小を問わず軍事施設であり、権力者の象徴だった。「30の名城からよむ日本史」(日本経済新聞出版社)の著者、安藤優一郎氏は城の成り立ちから、武将らの戦略や統治手法、人事政策までが見えてくるという。安藤氏に聞いた。

東西の築城技術を統一した家康の「江戸城」

 ――「城アプリ」が開発されるなどブームの影響で、全国の城を訪れる年間の総入場者数は2000万人を大きく超えるといいます。

 城の構造だけでなく、築城した理由などに注目することで、天下人らが目指した国造りのグランドデザインが透けてきます。例えば徳川家康(1543~1616)は、生涯で多くの名城を築きました。その時々における家康の意図や支配の方式が読み取ることができます。

 ――家康時代の江戸城を描いた「江戸始図」が近年発見され、奈良大学の千田嘉博教授らによって研究が大きく進みましたね。ただ家康は関ケ原の戦い(1600年)などの野戦の名手で、城攻めは苦手だったとの指摘もあります。

 日本の城が、質的にも量的にも大きく飛躍を遂げたのは戦国時代ですが、東国と西国では特色が異なっていました。東西の築城技術を統一したのが家康で、その代表が江戸城でした。

 ――家康が関東に移されたのは、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼして天下統一を実現した後の1590年(天正18年)でした。

 家康は、北条氏の支城だった江戸城の改修に着手しますが、秀吉の朝鮮出兵、死去などによって10年近く中断しました。本格的な城郭拡張は1606年(慶長11年)からで、将軍の立場から「天下普請」として諸大名に工事手伝いを命じることができました。

 青年期から壮年時代までに居城とした岡崎城、浜松城は東国流の「土塁」がベースでした。家康は江戸城で関東では見られなかった「石垣」造りを計画しました。諸大名に伊豆半島などから石材を運ばせ堀沿いに長大な石垣を築いたのです。

――天下人だった織田信長や豊臣秀吉は、豪華壮麗な天守閣を設けるなど、自らの権威・権力を誇示する「見せる城」を編み出したパイオニアだったとされています。

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