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大宰相・吉田茂の「負の遺産」と次の10年 細谷雄一・慶応義塾大教授に聞く(下)

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 戦後35人の首相で、1度辞任した後にカムバックしたケースは2人しかいない。現在の安倍晋三首相と吉田茂首相(1878~1967)だ。占領期に首相と外相を兼ね、憲法制定やサンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約など現在の日本の骨格を吉田は形作った。西南戦争の年に生まれ今年で生誕140年。昭和の大宰相の功績と限界、今後の国際政治の潮流について「自主独立とは何か」(新潮選書)の著者である細谷雄一・慶応義塾大教授に聞いた。(写真は東京・北の丸公園の吉田茂像)

「戦争に負けて外交に勝った歴史はある」とうそぶく

 ――逮捕経験を持つ人物が戦後に首相になった最初のケースが吉田茂です。太平洋戦争末期に早期講和を画策して憲兵隊に検挙されました。戦後は軍部に反対した過去がプラスに働き「ワンマン」と呼ばれた指導力も発揮して合計7年の長期政権を担当しました。「戦争に負けて外交に勝った歴史はある」とうそぶいていたとも伝えられています。オリジナルはナポレオン戦争後のタレーラン仏外相のセリフだそうですが。

 戦前・戦後で主義主張が変わらなかった日本人の代表が吉田です。新英米派の国際主義者かつ愛国者でした。吉田の中でこの2つは矛盾しませんでした。日本という特定の地域と特定の生活様式に対する献身を示しながら、他人にまで押しつけようとはしなかったのです。吉田は日本の伝統としての皇室の重要性を説くことを躊躇(ちゅうちょ)しませんでした。他方「各国にはそれぞれ立派な伝統と歴史がある」とも述べていました。

 吉田が親英米派だったのは、イデオロギー的な理由ではなく、国際機関や国際社会の規範が英米中心に生み出されていたからです。自国の利益を実現するためには英米両国と協調する必要がありました。米国でさえ、一定の条件のもとで外交を進めなければなりません。無数の拘束と限られた選択肢の中で、困難なかじ取りをしなければならないことを吉田は理解していました。

 ――吉田内閣は戦後日本の経済大国の基礎を築いたと高く評価される一方、「対米従属」だったとの批判も少なくありません。

 実際の吉田は、英米の外交手法をはっきり区別していました。英国流外交の洗練された手法は賛美しています。時には狡猾(こうかつ)であっても、短兵急に自己の主張を押しつけず豊かな外交経験を生かしていると評価しています。

 これに対して「米国人は理想に走り、善意ではあるが相手の感情や歴史・伝統を無視して押しつける」と厳しい評価を下しています。実際に米国側との交渉での体験に基づいているのでしょう。「随分多額の金を投じて援助の手を差し伸べても、結果は反感を招くだけに終わる場合さえある」とも著書に記しています。

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