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「満州事変」石原莞爾は悲劇の将軍か

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日中戦争の展開を正確に予想するも拡大を阻止できず

 しかし北岡伸一・東大名誉教授(現・国際協力機構〈JICA〉理事長)は「満州事変における石原の着眼は、短期的には天才的だったが、戦前日本の国際協調と政党政治を一挙に破壊してしまった」と指摘する。国連次席大使なども歴任した北岡氏は「国際協調は相互の自制と信頼のシステム」と説く。そのシステムを破壊したことで、むき出しの弱肉強食の論理がまかり通る国際政治時代を招いてしまった。「日本にとって有利なものだったかどうかは、答えはすでに自明だ」(北岡氏)。

 戦前の政党政治も分権的な明治憲法の下で、国家諸機関の自制と信頼によって可能なものだった。「政党政治の崩壊は政府と軍、陸軍と海軍、軍政と軍令、軍内部の指揮命令などの関係が、混乱を極めることにつながった」と北岡氏は指摘する。

 満州事変の負の遺産はまだある。「下克上」の風潮が定着したことだ。特に中国本土ではその後、満州方式をまねた「親日かいらい政権」の自治政府が相次ぎ各地で生まれた。第2、第3の石原を目指す陸軍将校の動きは、最終的には、石原自身でさえ止められなくなった。

 一方で事変後に大佐に昇進した石原はエリートコースの真ん中を歩くことになった。帰国後は仙台の歩兵第4連隊長を経て35年に参謀本部作戦課長に就任した。巨大な陸軍組織の中での花形部署だ。すでに声望は佐官の立場をはるかに超えていた。軍内だけでなく官界や経済界にまで石原ファンが増殖していった。青年将校がクーデターを起こした「2.26事件」で、石原は戒厳司令部参謀として鎮圧に動いた。しかし反乱軍側の青年将校らに慕われていたのも石原だった。

 「2.26事件」後、戸部教授は「一時的に陸軍に石原時代が訪れた」と分析する。反乱将校に近い「皇道派」を人事で中央から追放したため、派閥的に中立だった石原が浮上した形だった。そのときに長期的な国家戦略として策定したのが36年6月の「国防国策大綱」だ。

 大綱はまずソ連(当時)の屈服に全力を傾け、次に屈服したソ連と協力して英国勢力の東アジア駆逐を目指す。さらに中国、満州国と共同して米国との「大決勝戦」に備えるーーといった内容だ。戸部教授は「軍人は通常最悪のケースを想定して戦争に備えるものだが、この大綱は逆で国際的な力関係がうまく動くことだけを想定していた」という。その後、林銑十郎新首相と組閣方針で対立した前後から、石原の軍内外への影響力は落ちていった。

 37年7月の日中戦争への対処方針を巡って、石原の不拡大方針は陸軍の多数派から否定され「石原時代」は終わった。石原・反対派、どちらの側も早期解決を望み、本格的な中国との戦争をもくろんでいたわけではわけではなかったのは同じだった。軍事的に一撃を与えればすぐ中国は屈服して、懸案を一気に解決できるとみた大勢と、簡単には収束せず長期化を恐れた石原の先見性の差だった。

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