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「満州事変」石原莞爾は悲劇の将軍か

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満州事変で緻密な立案と臨機応変の対処

 世界最終戦論は、最後に西洋代表である米国と東洋代表の日本との「決勝戦」が戦われると予測する。その場合に大陸間弾道ミサイルのような最新兵器が開発されることも、石原はある程度予想していたという。その日に備えて、日本は戦略物資などを確保しておかねばならない。その対象が地下資源の豊富な「満州」だった。

 満州事変を支持する立場に立った場合、戸部教授は「石原の緻密な計画と臨機応変の機略は見事だった」と評価する。関東軍参謀は、石原にとっては最初の参謀職だった。兵力差は関東軍が一万数千、対して同地域を支配していた張学良軍は二十数万と約20倍だった。その上張学良軍の最精鋭の部隊は北京周辺に駐屯していた。

 満州事変の第1のポイントは最初の24時間だ。関東軍は18日夜に柳条湖付近の南満州鉄道を爆破し、中国軍の仕業として翌日までに素早く奉天(現在の瀋陽)、長春、営口など沿線上の主要都市を占領した。

 第2のポイントは「事前のシナリオに基づいて朝鮮軍の援軍を引き入れたこと」(戸部教授)。兵力不足を解消した。当時の若槻礼次郎内閣だけでなく、陸軍参謀本部も事変不拡大の方針だったが、関東軍は独断専行を繰り返して北満州にまで占領地域を拡大した。

 戸部教授は「第3の分岐点が10月に張学良軍の反攻拠点だった錦州を爆撃したことだ」と指摘する。幣原喜重郎外相による不拡大声明の信頼性を損なわせ、「国際連盟で進んでいた対日妥協の動きをけん制するためだった」(戸部教授)。

 一方で東京の陸軍中央部の反対のために当初の直接領有計画を断念し、清朝第12代で最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀を担ぎ出し、かいらい政権の執政(後に皇帝)に据えた。32年3月に面積約120万平方メートル、人口3千万人超という「満州国」が誕生した。軍事的成功の大きさのため、独断出兵、命令無視の重罪は、逆に国家への功績として承認された。

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