天下人たちのマネジメント術

「悲劇のインパール作戦」を生んだ牟田口・河辺・東条

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東条首相に欠けていた戦力ビジョン

 ――東京の政府や大本営にも責任がありませんか。

 「東条首相は優秀な軍事的テクノクラートでした。インパール作戦についても作戦開始前に(1)英軍がビルマ南部に逆襲上陸した場合の備えがあるか、(2)兵力の増加は不要か(3)劣勢の航空兵力で地上作戦に支障はないか、(4)補給は作戦に追いつけるか、(5)作戦構想は堅実か――と的確な質問をしていました。作戦開始後も(1)インド・中国ルートの遮断、(2)ビルマ南西岸沿いにタイを攻撃する作戦線を英軍に与えないことが任務だと指摘していました」

 「問題は現地の苦境を知った時です。現地を視察した参謀次長が遠回しに作戦中止を示唆したときには『弱気』を叱責しました。インパール作戦の初期の成功は日本国内でも華々しく伝えられていました。ほかの戦場では、どんどん戦況が悪化していました。東条は、戦争指導の継続と政権維持を、インパール作戦の成功にかけつつありました」

 「東条は参謀次長を叱責したあと別室で『困ったことになった』と頭を抱えていたそうです。しかし中止命令は出さず、現地からの要請を待っていました。東条に責任感が欠如していたというより、積極的にイニシアティブをとる明確な戦略ビジョンを持っていなかったためでしょう」

 ――最終的に中止命令が下ったのは7月初めでした。撤退途中で亡くなった将兵の死体は、雨と暑さで腐敗が速く進み「白骨街道」の名ができました。

 「東条はサイパン失陥もあって、7月下旬に退陣しました。牟田口と河辺は8月に司令官を更迭されました。しかしその間も、悪疫瘴癘(あくえきしょうれい)の地である戦場からの将兵の撤退は続いていました」

 「戦後暫(しばら)くは沈黙を守っていた牟田口は、インパール戦史を執筆する英国人の取材を受けた後に弁明を始めます。英国人が牟田口の作戦を好意的に扱っていたからです。しかし日本の戦史研究者や戦記作家で牟田口の求めに応じた者はいませんでした」

 「牟田口を取材した英国人の前提は、日本軍も英軍と同じように十分な弾薬の補給を受けられるというものでした。しかし、そんな前提はそもそも成立してはいなかったのです」

(聞き手は松本治人)

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