天下人たちのマネジメント術

「悲劇のインパール作戦」を生んだ牟田口・河辺・東条

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■「部下のやる気」を応援するも定見無し

 ――ビルマ戦線でも牟田口に振り回されていたのですか。

 「むしろ牟田口の作戦を後押しした観があります。やる気を見せた部下を、積極的に応援するタイプの上司でした。河辺自身に、しっかりした定見や見通しがなかったからでしょう」

 「牟田口が信奉する『必勝の信念』『積極果敢』を、河辺も当時の日本軍で最高の価値理念として尊重していました」

 「河辺は『何とかして牟田口の意見を通してやりたい』と軍事的合理性に人情を挟みました。参謀らの指摘する作戦の欠陥を承知していましたが『実戦部隊の積極性を損なうべきではない』『そこまで決めつけては牟田口の立つ瀬はあるいまい』として抑えました」

 「牟田口は本来の命令系統であるビルマ方面軍司令官である河辺以外の意見や見解には服従しないとしていました。河辺も作戦修正するように指導しません。参謀らも河辺の真意を知った後では組織内の融和や人間関係の方を重視して異論を唱えようとしなくなりました」

 ――インパール作戦は当初は順調に進んだといいます。

 「英軍側の戦略的後退で順調のように見えたのです。しかし、日本軍は補給線が延び切ったところを反撃されました。携行した食糧は3週間分しかなく、弾薬の追送もほとんどありませんでした」

 「牟田口は、作戦に参加した3個師団の師団長を作戦途中で全員解任しました。インパール北方のコヒマに向かった第31師団の師団長、佐藤幸徳中将は、ほとんど補給を受けないままでの戦闘継続は不可能であるとして、軍命令に反して独断で撤退し更迭されました」

 ――最も悲劇的だったのは、作戦中止の決定が遅れたことだといいます。

 「河辺は、6月上旬に自ら牟田口に会いに前線へ行っています。当事者である牟田口から作戦中止を言い出すのが筋だと思って、河辺は黙っていました。牟田口ももうムリだと思っていましたが、言い出すのをはばかっていました。戦後に『私の顔色で察してほしかった』と言い残しています」

 「牟田口が作戦中止を上申したのは6月下旬でした。しかし河辺は『かくのごとき消極的意見具申に接するは意外』と戦闘継続を命じました。河辺は牟田口の自殺を恐れ、攻勢を命じることで、気持ちを引き立たせようとしたそうです。しかし作戦中止が1日遅れれば、戦闘と疲労と栄養不足のために、それだけ多くの犠牲者が出ました」

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