天下人たちのマネジメント術

「悲劇のインパール作戦」を生んだ牟田口・河辺・東条

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 太平洋戦争は将来の展望が開けないまま開戦した戦争だった。3年目に入った1943年からは、米英軍の本格的な反攻を受けて戦況不利が浮き彫りになってきた。戦略物資の不足に加え、司令官による指揮のミスが敗勢に拍車を加えるケースも出てきた。それが44年のビルマ戦線における「インパール作戦」だ。凄惨な失敗に終わったこの作戦は、現場の作戦立案から後方の政府・大本営のあり方まで、さまざまな問題を今日でも提起している。帝京大学の戸部良一教授に聞いた。

「敗北を拒否」精神主義に凝り固まった牟田口

 ――インパール作戦は44年3月から開始され、7月には莫大な犠牲を払って中止されました。参加人数約10万人のうち、戦死者3万人、戦傷・戦病で後送された者2万人。残存兵力5万のうち半数以上も罹患(りかん)していたといいます。

 「全体の戦局が悪化している中で、戦争初期に占領したビルマが連合国軍の反攻のターゲットになる恐れが出ていました。そのビルマを防衛するため『攻勢防御』として考えられたのが、インド北西部の反攻の拠点インパール市を攻略する作戦でした」

 「しかし衰えつつあった日本国力から、戦局全体にとって必要・可能な作戦であったかは大きな疑問です。太平洋戦争全体からみれば、ビルマ戦線は主戦場ではありませんでした。42年段階ならば英国屈服をはかるための戦略オプションとして考えられたかもしれませんが」

 ――作戦を立案・指揮した第15軍司令官の牟田口廉也中将はどのような指揮官だったのでしょうか。

 「エリート軍人でしたが、敗北を考慮すること自体を拒否するような精神主義的な傾向はありました。少壮将校時代には陸軍内で『皇道派』と呼ばれる派閥に属していました。」

 「牟田口の名前が歴史に登場するのは、37年の日中全面戦争につながった盧溝橋事件です。事態収拾を優先する中央の方針に対し、独断で出撃命令を出しました。自ら正しいと思うことの実行に直進するタイプでした。太平洋戦争初期のマレー作戦で第18師団長としては軍功を挙げました」

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