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名将・山本五十六元帥、幻に終わった「海軍大臣」プラン

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 当時の岡敬純・海軍省軍務局長は戦後、「山本大将が東条内閣の海相として最適任であったことは確か。しかし連合艦隊長官として動かせなかった」と回想したという。戦争かどうか分からぬ時期に現場のトップは動かせないというわけだ。山本は士官、下士官、水兵らから圧倒的な人気を得ており、異動すれば士気に関わるといった懸念もあっただろう。海軍長老らも意見は一致していても、現役世代に積極的に働きかけるまでの行動力に欠けていた。「山本海相」案は推進する政治的勢力が決定的に足りなかった。

重要な局面では常に「非主流派」だった限界

 山本が東京に戻るのを阻止したいという思惑も海軍の一部にあったのではなかろうか。山本は海軍部外の人脈が広く、西園寺公望公爵の秘書で昭和前期の政治裏面史を書き記した原田熊雄氏の「原田日記」にもたびたび登場する。一方で海軍次官の時には、暗殺計画が練られるほど三国同盟推進派から敵視されてもいた。

 海軍内の「アンチ山本」勢力は東京に山本が戻って政治力を発揮されるのを嫌っただろう。畑野氏は「早期開戦を望んだ海軍主流派と山本との間には、戦争の経過予測に大きな違いがあった」と指摘する。「『政府が戦争をすると決めたらそれに従うのみ』『どうせ戦争が避けられないのであれば戦機を逸しないうちに』という海軍部内の一般の感覚と、山本とでは相当な懸隔があった」(畑野氏)。

 当の山本は嶋田海相誕生に「どうして井上成美を大臣にしないのか。井上ならば東条と渡り合えるのに」と嘆息したという。井上海相案は山本海相以上に実現性が低かっただろう。井上は海軍兵学校の37期卒業生だ。及川は31期、山本と嶋田は32期。海軍の伝統的人事からはだいぶ早い。

 諦めの悪いのも「名将」の条件なのかもしれない。山本は、なおも嶋田海相に天皇の決断による戦争回避を期待する書簡を送った。真珠湾の攻撃部隊には日米交渉が万一妥結した場合は、ただちに反転帰投するように厳命した。終戦時における「聖断」のアイデアを先取りした形だ。しかし4年後でも難航したものが、まだ戦争の帰趨も見えていない段階では受け入れられるはずもなかった。

 畑野氏は「山本海相か米内軍令部総長が実現していたら、外交交渉に予め期限を設けて戦争へ突入するような方針は許さなかったかもしれない」と語る。「米内が連合艦隊長官ならば山本が第一航空艦隊司令長官としてハワイの陣頭指揮を執ることになったはずだ。現実には実施しなかった第2次攻撃で、敵の空母や修理施設、重油タンクなどにも打撃を与えた可能性はある」(畑野氏)。

 山本の政略が挫折した原因を「重要な局面では、常に主流から外れていたからだ」と畑野氏は指摘する。畑野氏は「伏見宮に代表される海軍主流派が、対米開戦の可否という局面に際して山本に期待したのは、あくまで最大の戦術的効果を追求するための観点や統率能力だった」と分析する。真珠湾攻撃は米海軍の戦艦の撃沈など多くの戦果を挙げたが「米国民の継戦意欲を阻喪させる」という山本が期待していた狙いを果たすことはできなかった。「山本は真珠湾後も、短期決戦を求めて連続進攻作戦に終始せざるを得なくなった」(畑野氏)としている。

(松本治人)

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