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名将・山本五十六元帥、幻に終わった「海軍大臣」プラン

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 しかし41年春に実際に伏見宮の後任となったのは永野修身・軍事参事官(当時)だった。永野は、海軍兵学校では米内より1期上だった。「米内を現役に戻しての軍令部総長は、永野に対する露骨な不信の表明となるため、伏見宮にも躊躇があったかも知れない」と畑野氏。連合艦隊長官の赴任先は海上の艦隊で、山本に代わって東京で米内待望論を盛り上げる盟友、腹心にも欠いていた。山本が書簡を送ったり、会議で上京した際に意見を述べただけでは政治的な効果には限界があった。

 他方「第3次近衛内閣の成立後は、米内ら海軍長老による山本海相案が浮上した」と畑野氏。きっかけは永野軍令部総長の「対米早期開戦論」を不安視した近衛文麿首相が、総長交代の可能性を海軍長老に打診したからだ。戦前の法制では、首相といえども統帥部の人事に介入できない。近衛の意を受けた小林躋造大将(小磯内閣で国務大臣)が海軍長老間の意見を集約する経過で浮かんだ人事構想だった。

海軍長老が構想した海軍大臣案

 小林の回想記録によれば、米内は小林に、第1案として「永野軍事参事官・及川軍令部総長・山本海相」を、第2案として「及川連合艦隊長官・永野総長・山本海相」を示したという。「とにかく山本が東京にいることが必要だ」と強調したといわれる。さらに海軍OBで近衛内閣の外相だった豊田貞次郎大将は及川海相の更迭を望んだ。 

 山本は合計約3年8カ月という歴代最長の連合艦隊長官だ。平均は約2年で、永野のように約10カ月で軍事参議官に転じたケースもある。米内は連合艦隊長官就任後わずか2カ月で海相に転じた。山本は39年8月からだから、ちょうど異動期にあたっていた。山本本人も、交代を考えていたフシがあったという。41年10月の近衛退陣と東条英機内閣の成立は山本海相誕生のチャンスだっただろう。

 しかし海軍の及川海相や人事当局は山本を海相候補リストに挙げなかった。第1候補が豊田副武大将、第2候補が嶋田繁太郎大将だった。東条がアンチ陸軍色の強い豊田を忌避したため、山本と海軍兵学校の同期で軍政経験をほとんど持たない嶋田海相が実現した。

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