天下人たちのマネジメント術

名将・山本五十六元帥、幻に終わった「海軍大臣」プラン

記事保存

日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。

 それでも軍令部総長が一頭抜けた存在だったのは、32年から伏見宮が就いていたからだ。単に皇族というだけでなく、日本海海戦に従軍して負傷し、艦長や艦隊長官も務めた威信が加わって海軍内で絶対的な存在だったという。しかし40年当時は健康問題もあって後任問題が浮上していた。

3代の内閣で大臣―次官のコンビ組む

 米内と山本は林銑十郎内閣から第1次近衛、平沼騏一郎内閣と3代にわたり海軍大臣・次官でコンビを組んだ。三国同盟に関しては井上成美・軍務局長とのトリオで締結阻止に動いた間柄だ。何より軍政経験がほとんどなかった米内の海軍大臣就任は、先に次官になっていた山本が伏見宮、永野修身前海相に強く推薦したからだという。畑野氏は「2人が出会ったのは、お互いがまだ30歳前後の少壮太尉だったころの海軍砲術学校教官時代だ」と指摘する。

 山本が米内の政治的力量に着目し始めたのは『二・二六事件』への対応とされる。陸軍の青年将校が起こしたクーデターの当初から、横須賀鎮守府司令長官だった米内は彼らを「反乱軍」と断定した。特別陸戦隊を軽巡洋艦に乗せ急航派遣するなど、他の海軍将官に比べて水際立った行動だったという。米内の現役復帰には昭和天皇の「特旨」が必要になる。しかし不可能ともいえない。実際、米内は太平洋戦争中の44年にはカムバックして小磯、鈴木両内閣の海軍大臣として入閣した。

 ワーストケースの分析家として、山本は41年1月には真珠湾攻撃の具体化案に着手した。近衛内閣が野村吉三郎・海軍大将を駐米大使に決め、本格的な対米関係の改善に取り組んでいたころだ。その一方で山本は、伏見宮に米内軍令部総長案を提案した。海軍OBの野村実・元防衛大教授の研究によれば、伏見宮は米内を将来自分の後継者にすることを、いったんは承知したという。

閲覧履歴

    クリッピングした記事

    会員登録後、気になる記事をクリッピングできます。