天下人たちのマネジメント術

名将・山本五十六元帥、幻に終わった「海軍大臣」プラン

記事保存

日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。

 昭和海軍の名将といえば、真っ先に山本五十六元帥の名前が挙がるだろう。連合艦隊司令長官として1941年に対米開戦劈頭のハワイ・真珠湾攻撃を立案し、実戦部隊の指揮・統率で比類のない力量を示した。その一方で、山本は最後まで戦争回避の道を模索していた政略家でもあった。太平洋戦争の開始を目の前にしての山本の政治的工作と挫折は、現代の企業社会にもヒントを与えてくれそうだ。

最初は「米内軍令部総長」プラン

 武蔵学園記念室で勤務のかたわら日本海軍史の研究を行っている畑野勇氏は「第2次近衛内閣で日独伊三国軍事同盟が締結された40年9月以降、山本は米内光政・元首相の現役復帰を目指した」と言う。山本は連合艦隊司令長官で海軍実戦部隊のトップ。三国同盟の締結は国力・戦備で日本をはるかに上回る米国との戦争が現実味を帯びてきたことを意味した。畑野氏は「(1)重油はどこからとるか(2)鉄の入手先(3)ソ連(当時)と連携は不可能か(4)新軍備充実に必要な機材の確保――などを山本は危惧していた」という。開戦か否かの政局に備えて、海軍の意見を政府に十分に反映させられる実力者を据える秘策が、米内の予備役からのカムバックだった。対米戦の絶対回避という点で山本と米内は意見が一致していた。

  山本が近衛文麿首相に語った「是非やれと言われれば半年や1年は随分暴れて御覧に入れる。2年3年となれば全く確信がない」というセリフは有名だ。その一方で、及川古志郎海相には翌春の艦隊改編に合わせた「米内光政・連合艦隊長官、山本第一航空艦隊司令長官」案を意見具申していた。自らの降格を意味するこの人事案は、山本の2段階作戦だったらしい、と畑野氏は指摘する。「山本が記した書簡によれば、米内を連合艦隊に迎えたあと、海軍トップの伏見宮博恭王・軍令部総長の後任に推す計画だった」と畑野氏。

 海軍の現役最高ポストは軍令部総長(1933年までは海軍軍令部長)、海軍大臣、連合艦隊長官の3ポストだが、組織上、連合艦隊長官は軍令部総長の指揮下に入る。海軍大臣は全海軍の人事権を掌握しており、理論的には軍令部総長の更迭も可能だ。

閲覧履歴

    クリッピングした記事

    会員登録後、気になる記事をクリッピングできます。