それもまた、孫子の次のような指摘に適合する行動だと解釈できる。孫子は、ここで引いている言葉の少し前に、こういう。
「勝を見ること衆人の知る所に過ぎざるは、善の善なる者に非ざるなり。戦い勝ちて天下善なりと曰うは、善の善なる者に非ざるなり」
つまり、誰の目にも勝ちだと見えるような態勢で勝っても、それは最善の勝ち方ではない、というのである。むしろ、人目を引かない勝ち方、いつの間にか勝ったように外からは見えるような勝ち方こそが最善だという。それは、勝つための態勢作りというのが、じつに細かいこと、微妙なこと、外からは見えにくいこと、の集合体だということである。その微妙な総体に目がいかなければ、善の善なる者にはなれない。
人目を引かない勝ち方、戦う前に勝つような態勢を作っての勝ち方は、いずれも、戦場での華々しい戦闘行動などあまりない勝ち方、ごく当たり前に見える勝ち方になることが多そうだ(桶狭間は、派手な勝ち方だから、この点では例外かも知れない)。
それは言葉を換えれば、「勝ち易き者に対して勝つ」、と外からは見えるような勝ち方が「善の善なる者」ということになるだろう。事実、孫子は、先の言葉に続けてこういう。
「古(いにし)えの所謂(いわゆる)善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり」
勝ち易きに勝つ、というと、大したことはないと思われがちであるが、とんでもない。勝ち易い状況に自分をもっていくのは、大変なことなのである。しかし、実際の戦さ自体は勝ち易い戦さをするわけだから、派手なことは起きない。だから、孫子はこう続ける。
「故に善く戦う者の勝つや、智名も無く、勇功も無し」
つまり、派手に将軍の名声が上がることもなく、勇ましい功績が喧伝されることもなく、ただ淡々と勝っていく。それが善の善なる者の戦さなのである。