「論語と算盤」と現代の経営

金融が経済、社会の主役になろうとしてはいけない 守屋淳氏

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 質問に対して遠回りしましたけれども、やっぱりグリードというものはあるんです。あるんですけれども、それを発揮するとあんまりよくないことが起こる。さらに、グリードというのは、押さえ込まれると、また別のことで力を発揮したくなるものなので、それも起こさないようなシステムを作っていくというのが社会の枠組みとしては求められるんだと思いますね。

守屋 渋沢栄一は、その基盤として『論語』というものを持ってきたと考えればよろしいのでしょうか。

塚本 基盤としてというか、渋沢栄一さんの場合はむしろ、もう少し歴史的な背景が今とは違うところにあると思いますね。栄一さんは「士魂商才」というモットーを唱えていますが、士農工商の江戸時代から明治に入って、「士魂と商才のどちらがいい、どちらが悪いという話じゃありません。これは皆で力を合わせてやっていかなきゃいけない。同じ方向を向いて、富国強兵のためにやっていきましょう。それがいいことですよ」と、そういう歴史的な背景の下で、『論語と算盤』の活動をやっておられたのでしょう。

 そういったマクロの面もある一方で、渋沢さん個人がいろいろ寄付をされたり、お金を自分のためにはほとんどお使いにならなかったという意味での、個人レベルの活動はもちろんあったわけです。けれども、歴史的には今申し上げたような部分はあったと思います。

これからの銀行のあり方

守屋 ありがとうございます。いま歴史的な背景について述べて頂いたので、渋沢栄一の時代と現代とを比較して、1つお伺いしたいと思います。

 渋沢栄一の時代というのはヨーロッパ、特にフランスを模倣した資本主義を日本に入れようとしていました。日本の近代化の時期に当たっていて、比較的、国や経済界の目指す方向性というのが一致しやすかったし、その中で銀行の役割というものも比較的位置づけしやすかったと思います。しかし、現代というのは、そういった設定が、国にしろ、産業界にしろ、非常にしづらくなっています。そんな中で塚本さんは10年、20年スパンの金融や自社の使命や絵柄というものをどのように描いていらっしゃるのでしょうか。

塚本 常に思っておりますのは、金融というのは経済、社会の主役になろうとしてはダメだ、ということです。金融は本来的に何のためにあるかと言いますと、国民の国家、経済社会がよりよくなるための必要な血流として、黒衣(くろこ)としてあるわけです。だから実体経済、あるいは国民の産業とか生活が先にあって、そこをサポートする。金融が実体経済と等身大以上になっちゃいかん、と。そこであまり思い違いをして、傲慢になってはいけないということがあります。

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