経済学的にありえない。

政府の「言うこと」を市場はどのくらい気にするか 佐々木一寿氏

記事保存

日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。

 ただ、そのためには、問題が山積しています。金融政策と財政政策にも限界がないわけではありません。

 わかりやすい方からいくと、財政政策をするためには、財源を確保するか、国債で賄うことになります。国債で賄う分(ざっくり財政赤字に相当)が増えると、財政政策が景気に対してプラスだとしても、将来の返済が不安になる。これを織り込むならば、財政政策は必ずしも有効的でもない。という意見もあります(合理的期待形成派などからの意見)。

 経済学的に頷ける話ではありますが、これに対してケインジアンは、いまの財政政策による景気回復が将来の税収の増加を自然発生的にもたらす、と反論する傾向にあります。

 となるとこれは、どうやらニワトリ―タマゴの構造なのでしょうか。

みんなのおサイフは緩やかにつながっている

 経済政策をもっと積極的にするべきかどうかに関しては、もう少し別の観点からの議論もあります。個人が合理的に振る舞えば、全体のためになることもあれば(たとえば自由市場による全体の配分の最適化)、あるいは合理的に振る舞えば振る舞うほど、全体として不合理な結果になってしまうこともありえる。この不思議な現象を「合成の誤謬(ごびゅう)」と呼んだりします。

 たとえば個人が自分の資産を増やそうとしておカネを貯め込む(これは個人にとっては賢い合理的な態度です)。みんながそうしてしまう。こうして貯金に励むほどおカネを使う機会が全体で少なくなり、やがて景気を冷やしてしまい、結果として個人の収入も減らしてしまう、といったような状況です。

 ミクロ(個人)の賢い振る舞いが、マクロ(全体)にとってはよくないことにつながってしまい、それぞれの個人たちにとっても望ましくない事態を招いてしまうならば、なんとも皮肉なことです。

 ただ、ここで「では、私がみんなのためにドーンと浪費します」という男らしい(?)人が現れたとしても、みんなが使わない状況では、目も当てられないこと(ひとりだけスッカラカン)になってしまうかもしれません。「みんな(私を含む)がおカネを使う」状況であれば、景気がよくなりそうですが、それをどうやって実現することができるのでしょうか。

 このような状況で個人が身動きがとれなくなってしまう(もう少し厳密にいえば、「個人にとって自身の振る舞いを変えないことが最良の戦略になっている」)状況は、ゲーム理論の用語で言うところの「ナッシュ均衡」的とも言えます。このブレイクは個人にとってはなかなか容易ではありません。

 つまり、みんなのおサイフは緩やかにつながっている(いわゆる「波及効果」がある)のですが、個人としては使わずにほかのみんなが使ってくれるのが最良の状況だとして、全員が賢くそう思っていたとすると、みんなのサイフを小さくしてしまう(景気後退)。逆に、みんなが使うと信じられれば、みんなのなかのひとりである私も使おうと思えるかもしれません(相転移)が、ナッシュ均衡に落ち着いてしまっている状況ではそれも望みが薄いようにも思います。みんなの足並みは、どうすれば揃えることができるでしょうか。

 経済政策は、それを代行するような一面もあります。そして、積極的に経済政策を推し進めるということは、それをさらに強めていくというみんなへのメッセージにもなるのです。財政政策に関しては、説明のとおりですが、これは金融政策に関してもいえます。政策金利を変更することを通じて、みんなにメッセージを伝えるのです。

市場のみんなが信用すれば、日銀の政策も成功する?

 本題に戻ります。景気が不調なので、政策金利を下げていって、もうそろそろ回復するかなと思っても、なかなか回復してこない。そうしているうちに、政策金利の下げ余地がどんどん少なくなり、ゼロに近くなって、当局が手を打ちづらくなってしまった(これが「流動性の罠」「リキディティ・トラップ」と呼ばれる現象)。さらには、ゼロまでいっても回復しない(ゼロ下限制約下)。大づかみにですが、これが近年の米-ユーロ-日本の状況です。

 ここで、金融政策の限界論も出てくるのですが、なかには金融政策がそもそも有効でない論をも伴って、風当たりが強い状況にありました。そこで、また2つの意見が出てきます。「金融政策はもう、やりようがない派」と「もっとやりようがある派」です。

関連情報

閲覧履歴

    クリッピングした記事

    会員登録後、気になる記事をクリッピングできます。