上杉鷹山 リーダーの要諦

生活費は前藩主の7分の1、倹約に努めた鷹山 佃総合経営事務所 代表 佃 律志 氏

記事保存

日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。

 殖産興業を進める上で上杉鷹山の頭の中にあったのは、原料輸出で終わっている産業を製品まで一貫生産し、付加価値を上げ収益を増やすことでした。米沢産の青苧(あおそ)は品質の良さを評価され、全国的に名高い織物である奈良晒(さらし)や越後縮(ちじみ)の素材に用いられました。米沢では青苧を育てて茎の表面の皮をはぎ、内側の繊維を乾燥させて、糸に紡ぐ前の段階で加工地へ送っていました。天候に影響を受け手間のかかる割に、最終製品に比べて利益は少ない状況でした。

技術支援のために役所設置し、品質向上で付加価値アップ

 製品にして付加価値を上げるためには、製品に加工するための技術が必要です。鷹山は縮布生産を行うために「縮役場」を設立し、役人を置いて支援組織を作りました。安永5年(1767)に越後松山と信州から専門の職人を招聘(しょうへい)して、縮布製造場を設け、三手組以下の藩士の婦女子を働き手にしました。

 当初は技術習得に力を入れ、長い年月をかけて付加価値を高めるための技術の修練を重ねました。専門家の指導のもとに、成果につながるまでじっくり時間をかけて高品質の技術立国を目指したのです。その後、養蚕が盛んになると、蚕からできた絹糸を経(たて)糸にし、青苧からの糸を緯(よこ)糸にした織物が作られるようになりました。

 寛政に入って養蚕が発展すると縮布から絹織物へ移っていき、積み重ねてきた織り方の伝統は引き継がれて、現代に生きる高い品質の米沢織が出来上がっていったのです。

 鷹山をはじめとして、各分野の責任者たちが新しい産業を育てるために必死で学び、価値を生み出していこうとする様子は、太平洋戦争後の日本の復興にかけた人たちと同じで、貧しさを乗り越えようとする人間のエネルギーを感じます。

 日本経済の急激な成長は、昭和50年代半ばにアメリカで『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という本が出版されるほど世界で脚光をあびました。この本によれば戦後、高度経済成長を果たすことができたのは、日本人の学習への意欲の強さが大きな要因であるとされています。

関連情報

閲覧履歴

    クリッピングした記事

    会員登録後、気になる記事をクリッピングできます。