上杉鷹山 リーダーの要諦

貧困打開の切り札、人材育成・人事改革 佃総合経営事務所 代表 佃 律志 氏

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 歴史を調べると、革命や改革には血の流れることが多いものです。それは、新たな流れの出現に遭遇しても、過去の慣習から脱皮できず頑なに今までの生き方を守り通そうとする人たちがいるからです。

 米沢藩でも、三奉行の1人だった芋川正令(いもかわまさのり)は、竹俣当綱(たけのまたまさつな)らの改革派と対立して、明和5年(1768)に奉行職を辞し隠居してしまいました。また、代々上杉家に仕え格式を重んじる重臣にとって、大検令に示された内容はとても従えるものではありませんでした。

倹約は進まず、開墾は進む

 安永元年(1772)3月、鷹山は「籍田(せきでん)の礼」を行いました。籍田とは君主が耕す田のことをいい、古代中国の周の国に倣い国内の農業を振興させるため、君主(藩主)が儀礼的に田を耕すことです。

 「籍田の礼」の実施日に、鷹山は早朝行列をつくって春日、白子の両神社に参拝しました。遠山村の開作場(荒れ地を田畑にする土地)には諸役人全員が参列しました。最初に鷹山が3鍬(くわ)を打ち、以下執政は9鍬、代官らは72鍬と3の倍数で鍬を入れていきました。作男まで鍬打が続いたあと、白子・春日両社からの御神酒(みき)を全員がいただいて終わるという順序で行われました。

 この儀礼は、鷹山が率先垂範することで農民が積極的に農作業に従事し、田畑を開墾していくことを意図したものでした。藩主が土地に鍬を入れた行動に、農民ばかりでなく藩士たちも動機づけられ、荒れ地の開墾に動き出しました。

 現代でも、企業において安全祈願など社長が率先して行う行事があります。危険な仕事をしている社員にとって、精神的な影響は少なくありません。鷹山は儀礼を巧みに活用しました。藩主の行動に触発されて、藩で最上級に位置する侍組の人たちも鍬を持って働くようになり、開墾された土地は着実に増えていきました。

 2年間で約18万坪(甲子園球場の約15倍の面積)の荒地が開墾されました。これに携わった藩士はのべ1万3000人余で、戦がなくなり付加価値を生み出せないでいた藩士が動き出し、汗をかくようになっていったのです。

 鷹山が23歳になった安永2年、いつものように板谷峠を通り、関根村の羽黒堂で着替えて馬に乗って入国しました。鷹山は、山上村の福田橋とお城の大手前の2カ所で馬から降りて、歩いて渡りました。

 橋が破損したとき、藩士たちがボランティアで働いて修復したということを伝え聞いていたので、それに対する感謝の気持ちを示したのです。当然、お供の者たちも同じ行動をとったのですが、随行した江戸家老須田満主(みつたけ)は、縮緬(ちりめん)の羽織で馬に乗ったままで渡りました。

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