藩の赤字を回復し米沢藩を立て直すためには、米中心では限界があります。鷹山は、「産業を盛んにし輸入藩から輸出藩へ」とする輸出立国の基本方針を打ち出します。安永4年(1775)、竹俣当綱(たけのまたまさつな)は「漆、桑、楮(こうぞ)の各百万本植え立て計画」を発表しました。
産業振興で輸入藩から輸出藩へ
これより前、安永元年に藩士の屋敷にも漆の木を植えるように通達を出しましたが、あまり効果がありませんでした。この経験から、安永4年には対象を分類し、藩士は1軒で漆の木を15本植えるようにと具体的に割り振りました。
1本植えると20文を与え、実がみのると藩が買い上げます。木が枯れたら次の木を植えさせます。当綱は領民がこぞって協力し100万本の木を植えることで、漆から1万9157両、桑から7407両、楮から5555両、合計3万2119両の純益が出ると予測し、努力すれば未来は明るいことを領民に示しました。
漆木の場合、図1のような具体的な割り当て計画を数値で示したのです。
図1 漆木の百万本植え立て計画と結果の推移
植え立てを促進するために、支援組織の中心になる「樹芸(じゅげい)役場」を城内に設置し、代表に吉江輔長(奉行、興譲館頭取)、侍組から副代表を選び、その下に役人を配置し、きめの細かい指導と管理の行える体制を作りました。