上杉鷹山 リーダーの要諦

J・F・ケネディが尊敬した政治家・上杉鷹山 佃総合経営事務所 代表 佃 律志 氏

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藩を二分する名誉争いを決着

 米沢藩では、藩主が米沢にいるときは、鉄砲隊が正月に馬場で鉄砲を撃ち藩主が観覧する習わしになっていました(鉄砲上覧)。それに絡んで、鉄砲の技を先に披露しようと名誉争いが、三手組の馬廻組と五十騎組の間で長い間続いていました。謙信の流れをくむ馬廻組と景勝の流れをくむ五十騎組は、意地もあり一歩も引かないため、両方の組で交互に行うように取り決めがなされました。

 鷹山が初めて米沢入りした明和6年(1769)の12月末、来る正月に向かってこの争いが再燃しました。決めごとからすると五十騎組の番だったのですが、馬廻組が「藩が初めて入国するときは、馬廻組が行う慣習で順番は当てはまらない」と言い出したのです。五十騎組も藩主初入国の際、先に行った例があるため譲れる話でありません。

 話がこじれ、同じ家中にいながらお互いが話をしなくなり、両方の組の藩士が親類関にある場合は絶縁状態になり、妻を離縁する者まで出る始末です。千坂、竹俣、色部の執政たちが調整に乗り出しますが、2つの組は殺気だって、一方に決めると斬り合いになりそうな状況になったため鷹山に報告しました。

 鷹山は三手組の宰配頭(各組の統率者)と下部組織の頭を呼んで話を聞いた後、「鉄砲上覧の目的は先勤争いではなく、日頃の鍛錬した技を見せることではないか」と説諭し、争いに関与していない与板組宰配頭に仲裁役を命じました。

 鷹山の説得で争いは一度は収まりますが、そのとき出された調停書類の文言の不備をとらえ、再度紛糾しました。このときは、1人の宰配頭に責任を取らせて知行百五十石を減らし隠居閉門にすることで収めようとしますが、再燃した争いは収まらず再び大きくなりました。

 困り果てた執政たちは、鉄砲上覧の廃止を鷹山に伝えます。謙信以来続けてきた儀礼と名誉を否定された2つの組は、憤然となりました。

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