学校で教えない経済学

行動経済学の落とし穴~人間は本当に「不合理」か~

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 似た心理として、目先の利益を優先してしまう「現在性バイアス」や、わずかなリスクでも回避しようとする「確実性バイアス」があります。けれども、これらのバイアス(心理的傾向)をすべて不合理と決めつけるのは乱暴です。人間は長い進化の過程を通じ外部環境への適応を繰り返し、心と体には生存に有利な機能が遺伝的に埋め込まれているはずだからです。

 経済学者の依田高典氏は、現在性バイアスや確実性バイアスについて「やり直しの利かない不可逆な時間の中で、繰り返しを前提とする確率論を適用できない『確実な今』を大事にしなければ、取り返しがつかなくなるという進化論上、最適な戦略だった」と説明します(日本経済新聞社編『やさしい行動経済学』)。

 そうだとすれば、目先の利益・損失に敏感な人間の性質は、進化論的にみればむしろ合理的であり、不合理と呼ぶのは適切ではないでしょう。

 進化の過程で発達した性質は、産業革命以降に急激に変化した日常生活には役に立たないものがあるかもしれません。わずかなリスクを避けたせいでチャンスを逃す場合もあるかもしれません。しかし一方で行動が慎重になり、その結果、不幸にならずに済む場合もあるはずです。

 私たちは行動経済学から、人間の「心のクセ」を学ぶことができます。その意味では有益な学問です。しかし人間の行動に「合理的」「不合理」といった、あいまいで誤解されやすいレッテルを貼ることには、慎重でなければならないでしょう。

 不合理というレッテルは、合理的な行動に導いてやろうという思い上がった考えにつながりかねません。

 昨年、ノーベル経済学賞を受賞した行動経済学の権威、リチャード・セイラー氏は「ナッジ」という手法を提唱します。強制ではなく、それとなく人々を誘導して「望ましい行動」を取らせるやり方です。もし本当に強制でないのなら、1つの工夫として評価してよいでしょう。

 けれども実際にはどうでしょうか。セイラー氏はキャス・サンスティーン氏との共著『実践 行動経済学』で、手取り給与が減るのを嫌う人間の損失回避志向などを考慮に入れ、貯蓄を増やす工夫を二つ提案します。能動的に拒否しない限り年金に加入させる自動加入方式と、拠出率を自動的に引き上げるプログラムです。

 任意の民間年金ならそれほど問題はないでしょう。ところがセイラー氏は、同じ仕組みを政府が運営する公的年金に組み込むよう推奨します。労働者は賃上げがあるごとに拠出率が引き上げられる年金プランに自動的に加入することになります。

 一見、労働者のためになりそうです。しかし貯蓄を増やすことが一般に望ましいとしても、個人によって事情は異なります。拠出率の引き上げをストップできる仕組みにはなっていても、お役所の面倒な手続きを考えれば、事実上なかなか変更できず、労働者は柔軟な生活設計の自由を失いかねません。

 企業も年金保険料の一部を負担しなければなりませんから、負担増で経営を圧迫される恐れがあります。そうなれば労働者の生活基盤そのものが不安定になります。「不合理」な労働者を助けるつもりの政策が、かえって不幸にしてしまうのです。

 人間の心理は一筋縄でいかないことは事実ですが、それを不合理だと決めつけると、独善的な政策につながりかねません。その落とし穴に気をつけながら、行動経済学の知見を楽しみたいものです。

(木村貴)

キーワード:経営・企画、人事・経理、学生、営業、技術、製造、経営層、管理職、プレーヤー、経営、人事、人材、研修、イノベーション

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