30の「王」からよむ世界史

「監獄から玉座へ」英女王の壮絶人生 東大名誉教授 本村 凌二氏

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 人物を切り口に読む世界史――。東大名誉教授の本村凌二氏の監修で、30人の王をピックアップしました。今回は徳川家康とほぼ同時期に英国を統治し強国の礎を築いたエリザベス1世女王です。母を父王に処刑され、即位前はロンドン塔(当時は監獄の機能もあった)に幽閉されました。即位後も正当な継承権を巡りスコットランド女王メアリと争い、メアリを処刑した後はスペインとの覇権争いに勝利します。女王の壮絶人生は、修羅場をかいくぐってきたこわもて経営者の歩みを見るかのようです。

 「イギリスは女王の時代に大繁栄する」という言葉がある。この言葉のきっかけとなった人物が、イングランド女王エリザベス1世だ。エリザベス1 世即位時のイングランドは、スペインやフランスとくらべて小国であり、経済や宗教、王位継承でも問題を抱えていた。エリザベス1 世は、それらの問題を巧みな政治手腕で克服し、イングランドをのちの大英帝国へと導いていくのである。

■チューダー朝の成立

 15世紀後半のイングランド王国は、相次いだ戦争により疲弊していました。百年戦争ではフランス王国に敗北し、1485年まで続いたバラ戦争では、イングランド貴族ランカスター家と、イングランド王リチャード3世を擁する貴族ヨーク家が王位継承権を争い、国内は混乱に陥ります。結果、両家は共倒れとなりました。

 リチャード3世を破ったのが、ランカスター家の傍流チューダー家のヘンリでした。ヘンリは1485年にヨーク家の子女と婚姻し、ヘンリ7世としてイングランド王に即位します。ここに、エリザベス1世まで6代にわたる(メアリ1世と婚姻関係にあったフェリペ2世を入れると7代)チューダー朝が開かれました。

 当時のイングランド王国はウェールズとアイルランドを支配下に置いていましたが、人口は400万人ほどでした。フランス王国やスペイン王国、神聖ローマ帝国といった大国にくらべれば、弱小国にすぎません。しかも、大ブリテン島の北部にはスコットランドが独立国として存在していました。

■離婚を契機にできた国教会

 1509年にヘンリ7世が死去すると、息子のヘンリ(ヘンリ8世)が18歳で即位します。ヘンリ8世はスポーツが得意で、音楽の才があり、優れた容貌でした。ただし、女癖が悪く、生涯で6回結婚しています。当時のイングランドで多くの人が信仰していたカトリックは離婚を禁止していました。しかしヘンリ8世は、侍女であったアン・ブーリンとの結婚を画策し、最初の妻であるスペイン王女キャサリンとの離婚を決意します。

 離婚を合法化するよう議会に働きかけたため、ローマ教皇パウルス3世はヘンリ8世を破門しました。これに対してヘンリ8世は、国王を教会の首長とする「国教会」制度を制定します。これが現在まで続く「イギリス国教会」のはじまりです。国教会は、教義こそカルヴァン派に近いものの、儀式はカトリックの様式を残しているという折衷的な特徴を有しています。

 ヘンリ8世がそうまでして離婚したかったのは、政権安定のため、多くの男子を欲していたものの、なかなか生まれなかったことが理由です。キャサリンは1516年にのちのイングランド女王メアリ1世を、アン・ブーリンは1533年にのちのエリザベス1世を生んでいます。

 離婚後、キャサリンはイングランドのキンボルトンで軟禁され死去します。アンも姦通罪の嫌疑で処刑され、この際、エリザベスは王位継承権を剥奪されています。3番目の妃となったジェーン・シーモアは待望の男子(のちのエドワード6世)を生みましたが、産後すぐに息を引き取ります。4番目の妃、ドイツ貴族の娘であるアン・オブ・クリーブスとはすぐに離婚し、5番目の妃、元女官キャサリン・ハワードは姦通罪で処刑されます。6番目の妃であるキャサリン・パーとの婚姻時点でも子どもが少なかったため、エリザベスの王位継承権が復活します。1547年に56歳でヘンリ8世は他界し、9歳のエドワード(エドワード6世)が王位を継ぎます。

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