■第1次世界大戦後、「対ソ連」で接近
19世紀を通じてアメリカとローマ教皇は対立してきました。過去にはアメリカと教皇領(ローマを含めたイタリア中央部)の通商上の必要から、アメリカはローマに領事を派遣、教皇はアメリカ初の司教を任命しています。
1848年、ヨーロッパ世界の安定を背景に、アメリカもローマと外交関係を持つことになります。しかし、国内で大きな反対が起きます。さらに、1870年に教皇領がイタリア王国に併合されると、領事は帰国。教皇が「ヴァチカンの囚人」になったため、両者の関係は断絶します。
第1次世界大戦後、ソ連を嫌う教皇庁の方から水面下でアメリカへの働き掛けが積極化します。後にピウス12世になる枢機卿パッチェリとフランクリン・D・ローズベルトが接近し、大統領の個人特使としてマイロン・テイラーをローマに派遣しました。
第2次世界大戦後、ピウス12世とトルーマン大統領の個人的な関係は親密でした。しかし、カトリックに対するアメリカ国内のプロテスタントの不信感は強く、トルーマンもアイゼンハワーもヴァチカンとの関係に二の足を踏みました。カトリック教徒のジョン・F・ケネディが大統領に当選した時も、ローマの圧力が強まるという理由で、ヴァチカンとの国交樹立は実現しませんでした。
■1984年、ようやくバチカンに米国大使館
ニクソン、フォード、カーターの大統領時代にはローズベルト同様に個人特使が派遣されていましたが、レーガン時代になって大転換します。折しも教皇は「闘士」ヨハネ・パウロ2世(在位1978~2005)の時代でした。両者はポーランドの「連帯」支援のための協力強化を約束、1984年に大使館が開設され、正式に大使が派遣されました。ソ連はアメリカとローマの仲人になったようなかたちでした。
ヨーロッパでは中世から近代にかけてユダヤ人への迫害が続いていました。18世紀になると、ユダヤ人の財力に注目した一部国家でユダヤ人にも市民権が開放されるようになります。
反ユダヤ主義に理念的に終止符を打ったのはフランス革命でした。しかし19世紀になると、「反セム主義」という、人種的にユダヤ人は劣等民族であるという、意味のない偏見が広まります。
反ユダヤ主義と反セム主義の本質は同じユダヤ人蔑視なのですが、19世紀のヨーロッパではそれが堂々とまかり通っていました。フランスで起きたドレフュス事件はその典型でした。