天下人たちのマネジメント術

最強交渉人・勝海舟の江戸無血開城

記事保存

日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。

あやうく徳川慶喜が江戸城帰還

 翌14日に海舟は長広舌を振るい、江戸を戦場とする無意味さ説いたという。他方、具体的な受け入れ条件は(1)謹慎は慶喜の故郷である水戸(2)慶喜に味方した大名らには寛大な処分(3)処分決定後に軍艦、兵器引き渡し――。当初の西郷案を骨抜きにしたものだった。即座の兵器引き渡しは、不満を持つ幕臣らが納得せず不測の事態も懸念されるという理由で、内部対立を抱えている自らの弱点も交渉材料に利用した。西郷は妥協し江戸城総攻撃を中止した。名目的には延期だったが、実質的な中止だ。この日の西郷の態度はおおらかなものだったという。4月11日に江戸城無血開城が実現した。

 神谷大介講師は「海舟は軍人として、新政府軍を相手に相当戦えるが最後は負けると予測していたのだろう」とみる。「海軍力の保持に食糧・水、弾薬、石炭などの補給、船体の修復が不可欠で、そのベースとなる軍港を維持しなければない。長期的には難しかったはずだ」(神谷氏)。双方の力量を冷静に判断した海舟の大局観が光っていた。

 海舟の辣腕ぶりは、これだけでは終わらない。西郷が徳川家の具体的な処分を決める会議のため京都へ戻ると、江戸に駐留していた新政府軍は弱体化し、治安が悪化した。すかさず海舟は「水戸に謹慎している慶喜を江戸へ戻せば、治安は正常化する」と提案した。家近教授は「めまぐるしく変わる状況の急所をキャッチし、最大の利益を得ようとする点で、海舟と西郷は同じ型のリアリスト」と指摘する。結局このプランは彰義隊の上野戦争もあって実現しなかったが、あやうく江戸城が徳川家に戻る可能性もあったわけだ。

 敵ながらあっぱれと思ったかどうか、明治政府はその後海舟の交渉力をさまざまに利用した。ストレス悪化で辞意をもらす西郷の説得など、当事者の心のひだに触れるような難しい案件ほど、海舟は引っ張り出された。前政権の代表といった立場でなく、海舟本人の力量が求められたケースも多かった。

 1898年(明治31年)、明治天皇と慶喜は初めて会談した。見知らぬ者同士が手っ取り早く親しくなるには、共通の知人のうわさ話が効果的だという。海舟の話題も出たに違いない。人間的にどうも好きになれないが、アノ男は仕事ができるやり手でと、互いに苦笑しあったかもしれない。

(松本治人)

キーワード:経営層、管理職、経営、企画、人事、人材、グローバル化、国際情勢

閲覧履歴

    クリッピングした記事

    会員登録後、気になる記事をクリッピングできます。