天下人たちのマネジメント術

最強交渉人・勝海舟の江戸無血開城

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硬軟織り交ぜて西郷の譲歩を引き出す

 

 海舟の講和交渉は硬軟織り交ぜた絶妙のタイミングで始まった。最初は駿府(静岡市)にまで進軍した西郷への手紙だ。「海軍を使えば大阪湾からも東海道筋からも攻撃できるが、恭順しているからしない。東征軍も箱根の西にとどめてほしい」と要求した。海軍をちらかせたのが効果的だった。「痛い所を付かれて西郷は激怒した」(安藤氏)という。

 さらに天璋院から徳川家存続の嘆願書を送った。島津斉彬の養女である天璋院が、大奥入りする際にあれこれ担当したのが側近の西郷だった。青山忠正・仏教大教授は「明治維新を読み直す」(清文堂)で「西郷は幕府の恭順姿勢が真剣なものであるという、確かな手応えを感じ取っただろう」としている。慶喜の政治的復権は、もはや無い。

 英国のパークス大使が江戸城攻撃に反対したのも影響が大きかった。家近教授は「海舟が幕府と親しいロシェ仏大使を通じて工作した可能性も否定できない」とみる。新政府と親しい英国と幕府に肩入れしていたフランスは、当時ライバル関係にあった。しかし、横浜居留地まで戦争に巻き込まれる事態に陥れば、利害は共通する。

 西郷が使者の山岡鉄舟に示した7条件は(1)慶喜の備前藩お預け(2)江戸城明け渡し(3)軍艦引き渡し(4)兵器引き渡し(5)城内家臣の謹慎――などだった。すでに当初の切腹論は影もなかった。それでも幕府側にとって厳しい条件だが、拒否させて無理やり開戦に持ち込もうというほどの内容でもない。備前藩は早くからの新政府側だが当主は慶喜の弟だ。「強硬姿勢は西郷の駆け引きだったのだろう」(安藤氏)。その心理を海舟は読み切っていたようだ。

 3月13日、江戸・高輪の薩摩藩邸での第1回会談は若干の質問、応答のみで終わったが、海舟は一言「和宮の安全を図らなければならない」と急所を突いたという。あとは西郷が気持ちよく下りられる状況を作ればよかった。

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