天下人たちのマネジメント術

最強交渉人・勝海舟の江戸無血開城

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 150年前の1868年(慶応4年=明治元年)3月14日、東征軍参謀の西郷隆盛は幕府側の代表である勝海舟との2度目の会談で、翌15日の江戸城総攻撃を中止した。当時、江戸の人口は150万人(推定)。市街戦に突入して、住民の生命と財産を戦火にさらす危機を防いだこの決定は、近代史上最も優れた政治的決断のひとつとして語り継がれている。しかし最新の研究から浮かび上がってくるのは、敗者側の海舟の卓越した交渉術だ。敵と味方の弱点を巧みに操った海舟のテクニックは、現在のビジネス社会にも応用が利きそうだ。

「敵への人脈が広い」が交渉役抜てきの条件

 同年1月の鳥羽・伏見の戦いで敗れ、海路を江戸へ逃走した15代将軍・徳川慶喜の最初の決断は海舟の起用だった。慶喜がその後朝廷・薩長両藩中心の新政府に恭順路線を貫いたことはよく知られている。慶喜の母方は有栖川宮家の出身。「西郷隆盛」(ミネルヴァ書房)の著者である家近良樹・大阪経済大客員教授は「慶喜は自分が朝廷側の人間でもあるという意識が強く『朝敵』とされることをひどく恐れていた」と指摘する。それまで疎遠な関係だった勝海舟を東征軍との和平交渉役に登用したのは、長崎海軍伝習所などを通じて雄藩の実力者らと幅広い人脈を築いていたからだといわれる。

 特に西郷に対してだ。「西郷隆盛と勝海舟」(洋泉社)を著した安藤優一郎氏は「幕府に代わる新体制の構想などを政治的にアドバイスされ、西郷にとって勝海舟は畏敬すべき人物だった」と言う。幕府内における抵抗論者らは罷免され、新撰組の近藤勇も甲州防衛の名目で江戸から外した。幕府内で抗戦・恭順論者間のバランスを取ったことで、勝海舟は交渉役としての立場を強くした。13代将軍御台所で薩摩出身の天璋院(篤子)、14代将軍正室で明治天皇の叔母にあたる静寛院宮(和宮)も新政府とのパイプ役に加えた。

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