ビール「営業王」 社長たちの戦い 4人の奇しき軌跡

サッポロ・尾賀社長「もう帰れ」店主の声で開眼 前野 雅弥

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 そして1988年秋。担当エリアが慣れ親しんだ北区から豊島区に変わる。これまでは家庭にビールを売る酒屋さん200軒が相手だったが、今度は居酒屋やバー、レストランなどにお酒を納入する業務用の酒屋さん20軒を担当することになった。

俺は世界で認められたビールを売っている

 受け持つ酒屋さんの数は減ったが、仕事の量は逆に増えた。なにしろ時はバブル。それなりに人通りのある繁華街なら、店を出せば必ず当たった。商売を拡大すればするほど実入りは増えるので、ちょっとお金がある飲食店の店主は新規出店をしたがった。東京の都心は出店資金がかさむから大変でも、千葉県や埼玉県などの郊外なら出せる。そう考える店主も多かった。

 これを逃す手はない。新規出店をどんどん手伝った。例えば、こんな調子だ。「オーナー、この間、千葉に出店したいとおっしゃってましたよね。今、空き店舗が出ていますよ。近くに東証1部上場の会社の支店があって、最寄駅までの通勤路になっているみたいなんです。仕事帰りのサラリーマンが絶対、立ち寄りますよ。僕も下見してきました。今度の休みの日に一緒に見に行きませんか?」

 首尾よく出店が決まると、次はこうだ。「オーナー、和食の店にしたいと言ってましたよね。それなら器はセンスのいいのを紹介しますよ。僕、親切な窯元を知ってるんです。きっと安く仕入れられます」

 店主が欲しがりそうな情報を先回りして次々と提供していく。キリンやサントリーと違ってサッポロは高いリベートを積み増すことができない。代わりに知恵を使う。でも、結局はそのほうがつき合いも長く続く。「リベートでとった店は必ずリベートでひっくり返される」。それがビール営業の鉄則だった。

 実際に新店舗を出してみれば、狙い通りにまた繁盛した。ビールも売れる。そうなると成り行き上、担当は尾賀になる。「池袋の取引先を訪ねたあと、今度は大宮、続いて千葉で商談」なんてこともたびたびだった。東京とその近郊を飛び回った。

 仕事は面白いように増えた。やればやるだけ数字は積み上がっていく。楽しかった。当然、家に帰るのは午前0時過ぎになる。妻に「あなたって、本当は何をしているの?」と真顔で聞かれた時は正直、困った。「われながら、あの時は本当によく働いたと思う」

 このころの尾賀のがんばりを支えていたのは「サッポロのビールは絶対にうまい」との確信だったかもしれない。「うまいビールを消費者に届けている」から、がんばれた。その証拠に、サッポロのビールは海外でも着実に売れていた。特に1980年に米国で発売した「サッポロびん生」は堅調だった。1986年には「青島ビール」などのライバルを抑え、アメリカでもっとも売れるアジア系ビールブランドとなった。

 「ああ、俺は世界で認められたビールを売っている」。自分の仕事が誇らしかった。

伸びしろはある。西を攻めろ!

 尾賀氏は2013年、サッポロビール社長に就任。2017年にはサッポロホールディングス社長に就いた。入社当時、2位だった販売シェアはアサヒ、サントリーにも抜かれ4位に。だが、甘んじるつもりはない。

 2015年6月、尾賀は思案していた。

 JR大阪駅前の西梅田スクエアで開始する「ザ・パーフェクト黒ラベル ビヤガーデン」。首都圏に比べ関西ではなじみの薄いサッポロの「黒ラベル」を、ここでどう飲んでもらうか。「そうだ。最高の状態で黒ラベルを飲んでもらおう。絶対に消費者はついてきてくれる」。そう尾賀は考えた。

 関西には「黒ラベル」を飲んだことのない人が多い。最初の一口が勝負だ。まず「あっ、おいしい」と思わせるために、最初の一口が柔らかくて印象的にしたい。温度を徹底的に管理、泡立ちもきちんと整えた最高の「黒ラベル」を飲んでもらおう。そう決めた。

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