経済史から考える

明治「富岡モデル」 再生のヒント 東京大学大学院経済学研究科教授 岡崎 哲二氏

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繭の仕入れ 金融ネットワークで支援

 これら工場内の二つの革新に加えて、製糸業を取り巻く制度の革新にも注目する必要がある。生糸の大部分は製糸工場から横浜の売込(うりこみ)問屋に販売され、さらに外国商社を通じて主に米国に輸出された。製糸工場は、売込問屋に生糸を届け、代金を受け取る前に、生糸の生産、特に原料となる繭の仕入れのために多額の資金を必要とした。それを賄ったのが、主に売込問屋による前貸しだった。

 売込問屋はそのための資金を民間銀行から借り入れ、さらに民間銀行には日本銀行が資金を供給していた。東京大学名誉教授の石井寛治氏の古典的著作は、日銀を頂点とする階層的な金融ネットワークが日本の製糸業の発展を支えた構造を描き出した。

 日本の製糸業の発展をもたらした技術的、組織的、制度的革新は、経済発展を理解するうえで普遍的な意味を持っている。今日でも、特に発展途上国においては重要性を失っていない。

 富岡製糸場と関連施設の世界遺産への登録が、このような日本の歴史的経験について改めて考える機会になればと思う。明治以降の日本の経済発展の過程は、汎用技術の導入と普及の過程という側面を持っている。幕末開港直後の日本にとって、西欧で発達した近代的工場組織自体が新しい汎用技術であった。それをいち早く導入して輸出による成長を実現した代表的産業に製糸業がある。

 先にも触れたように、東京大学の中林真幸氏は、日本の製糸業への近代的工場組織の移植過程を分析し、工場組織が定着し高い生産性を発揮するためにいくつかの課題を解決する必要があったことを明らかにした。

 第一に、製糸業者が製品改良を行う動機を持つためには、市場がどのような製品を求めているか情報を得るとともに、それに基づいて行った製品改良の成果が彼らの利益となる必要がある。この条件の充足を可能にしたのは、製糸業者の共同出荷結社が独自の商標(ブランド)を確立するというイノベーションであった。

 第二に、大規模工場を効率的に運営し、高品質の生糸を低コストで生産するために独自の賃金体系が開発された。各労働者の賃金を、各人の製品の品質、物的生産性などの複数の要素に基づいて総合評価し、賃金を決める「等級賃金制」である。こうして日本の製糸業で大規模工場が効率的に稼働するようになったのは20世紀初めであり、1870年に前橋藩が最初の西欧式モデルプラントを設置してから約30年が経過していた。

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