経済史から考える

所得倍増計画、官僚の洞察力生きる

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「賃金2倍」学者がまず提唱

 1950年代末に、所得が2倍になるという、人々の心に強く訴える用語法をいち早く公表したのは、一橋大学教授の経済学者・中山伊知郎であり、59年1月3日付の『読売新聞』のコラム「日本の希望」の中で「賃金二倍」論を提唱した。ここで中山は「賃金」を広く被雇用者の所得という意味で使用している。中山の議論の趣旨は、所得の倍増は福祉国家の理想に近づくための具体的方策であり、それは生産性の上昇によって可能、というものであった。

 一方、警察官職務執行法改正案に関する岸信介首相の国会運営を批判して1958年末に第二次岸内閣の国務大臣を辞任し閣外にいた池田勇人は、当時大蔵省に在籍していたエコノミスト・下村治らと日本経済の成長について構想を練っていた。その構想と整合的な中山の「賃金二倍論」は、池田の琴線に触れるものであった。

 当時、池田の秘書を務め、後に政治評論家に転じた伊藤昌哉は、中山の新聞記事を探すよう池田から指示を受けたと述べている。池田は1952年2月、広島での講演で「月給二倍」を提唱し、以後、繰り返し「月給二倍」や「所得二倍」を訴えた。

 この構想の客観的な基礎は、下村によって用意された。1952年2月に下村が『金融財政事情』に発表した論文「日本経済の基調とその成長力」は、経済企画庁のエコノミスト・大来佐武郎や一橋大学教授の経済学者・都留重人らとの間で「産出係数論争」を引き起こした。

 下村の議論は、産出の増加が設備投資額に比例するという想定に基づいている。その比例定数が「産出係数」である。産出係数の大きさをどう考えるか、もう一つの制約条件である国際収支に影響を与える「輸入依存度」をどの程度と見るかをめぐって、論争が展開された。

 池田の政策論に対する下村の強い影響は、池田が1959年3月に『日本経済新聞』に寄稿した「私の月給二倍論」から読み取ることができる。池田はその中で、(1)ある年の設備投資は翌年にはその投資額に近い生産力を生み出す、(2)日本の輸入依存度は10%前後であり、GNPが年率10%で成長しても国際収支が赤字となる懸念はないとしている。(1)は産出係数が1ということであり、(2)の輸入依存度10%とともに、下村が強調した論点であった。

 所得倍増計画は、最終的に1960年12月に池田内閣によって閣議決定されたが、そこに至るまでには政治的な曲折があった。中山伊知郎の「賃金二倍論」のコラムが掲載された1959年1月3日の『読売新聞』には、自民党の党内人事に関して「焦点、反主流の起用」という記事が掲載されている。この記事によると、岸信介首相と大野伴睦自民党副総裁は、党内の「反主流派の大幅起用」による協力体制の確立を期しており、焦点は池田、三木武夫らの反主流派首脳が、重要ポストへの就任を受けるか否かにあった。

 結局、1959年6月、池田は第二次岸改造内閣に通産大臣として入閣した。伊藤昌哉は、池田の入閣に関して「もちろん、池田派のほとんど全員が不満だった」と記している。所得倍増を旗印に反主流派として総理・総裁を狙う池田が、岸内閣に取り込まれることに対する不満と見ることができる。

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