天下人たちのマネジメント術

井伊、本多...家康の大胆抜てき人事

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自分に背いても参謀として重用

 家康は自らへの謀反人を参謀として活用するという、信長にも秀吉にもできなかった人事も行った。本多正信(1538~1616)の重用だ。正信は1563年(永禄6年)の三河一向一揆で家康に敵対し、反乱鎮圧後は三河を出奔して全国を回ったという。北陸地方で一向一揆に加わり、信長軍と戦ったともいわれている。この浪人時代のエピソードとして、松永久秀が正信を「強からず、柔らかならず、又卑しからず、必ず世の常の人にあらず」と批評したという。松永久秀自体が権謀術数に長じて梟雄(きょうゆう)と言われた戦国大名だから、最大級の賛辞だっただろう。

 徳川家に帰参した時期もはっきりしていない。確実なのは本能寺の変前には戻ってきており、変後に家康が旧武田領を併合すると、奉行として統治を担当したことだ。最側近として重用されたのは、さらに何年も経ってからだった。家康は正信が諸国を放浪して得た見識を活用したかったのだろう。ぼくとつで排他的ともいわれる三河武士には任せられない高度で微妙な政略分野が正信の担当になった。関ケ原の戦いでも表の外交担当を直政とすれば、正信は陰の担当だったようだ。実際、直政死後に代わって対島津外交を処理したのが正信だった。家康が江戸幕府を開くと老中格として幕政を主導した。

 「徳川軍団に学ぶ組織論」(日本経済新聞社、小和田哲男監修)では、正信が「帯刀したまま家康の寝所に入ることを許されていた」としている。作家の松本清張は「戦国権謀」の中で晩年の家康と正信の関係を「今は、主従というより老友である。思っていることは、口に出さないでも心に通った」と表現した。関ケ原後に約15年かけて「大阪夏の陣」まで進めていったのは、家康の信頼厚い正信と長男の正純だったと言われている。豊臣系大名らに見せる顔とは別の、家康の本心を知り尽くしていたからだろう。家康は豊臣家滅亡に安心したかのように1年後には死去し、追うようにして正信もその約2カ月後に亡くなった。

 野田浩子氏は「家康の人事も基本は能力主義だった」と指摘する。ただ、信長や秀吉が局面の変化に応じて最適の人材をスピーディーに抜てきし、その後は追放することもあったのに対して、家康は計画的に登用していった。井伊直政は「小牧・長久手の戦い」で家康から叱責され、正信は関ケ原の戦いで徳川秀忠軍を遅参させるという失態を犯した。しかし1度のミスで切り捨てることはなく、部下の才能を最後までとことん使い尽した。その一方、家康は最晩年に至るまで三河武士気質を愛し、尊重していたという。家中の主流派にも気配りを忘れない一流のバランス感覚が、組織を継続させる秘訣だったのかもしれない。

(松本治人)

キーワード:経営、管理職、企画、人事、人材、経営層

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