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井伊、本多...家康の大胆抜てき人事

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計画的に育成、「官邸外交」を担わせる

最新の研究成果を盛り込んだ「井伊直政」(戎光祥出版)

最新の研究成果を盛り込んだ「井伊直政」(戎光祥出版)

 野田氏は「家康は計画的に直政を育てていった」とみる。徳川家を三河を中心とした豪族連合体から家康直轄の中央集権組織に再編成する狙いがあったという。地元に根ざした武士の集まりというだけでは、全国統一に向けた情勢の変化に対応し切れなくなっていたためだ。第1弾は軍事面で本多忠勝、榊原康政といった側近の侍大将への登用だった。第2弾が外交面での直政抜てきだ。

 「井伊家という名門ブランドは北条家と遜色のない家格として十分に通用した」と野田さん。この成功を足がかりに直政は武田家旧臣の取り込み、豊臣政権下での折衝、秀吉没後の合従連衡など重要な案件を次々に任され、事実上の外相として成長していった。

 家康には外交を自分自身で取り仕切りたいという欲求もあったかもしれない。信長との交渉を担当した酒井忠次は古くからの東三河地方の豪族の代表格。しかし家康の嫡男・信康に切腹を命じる信長の要求を簡単に受け入れてきてしまった。秀吉との交渉を担当した石川数正は西三河の代表だ。こちらも秀吉との融和策を主張するあまり、最後は秀吉側に寝返った。いずれも家康には不本意極まりなかっただろう。主君ですら十分なコントロールが利かない大物重臣に外交を担当させるのはコリゴリと思っていたのではないか。

 直政ならば文字通り家康の「子飼い」で、主君の意志に反して交渉する心配はない。さらに武勇一辺倒の三河武士と違い「名門の後継者にふさわしい教育を幼少時に周囲から受けていたようだ」(野田氏)。団結心が強い代わりに閉鎖的な「三河モンロー主義」の徳川家は、従来外交交渉に長じていたとは言いがたい。直政は家康の「官邸外交」を展開する上で最適の人材だったわけだ。外交だけでなく、直政には旧武田家臣団を付属させて軍事力も整えさせた。徳川軍団の中で最強部隊のひとつとなった「井伊の赤備え」だ。

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