天下人たちのマネジメント術

毛沢東流、コンセンサス重視の「独裁」

記事保存

日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。

 5年に1度の中国共産党全国代表大会が18日、北京で始まった。権力集中を進める習近平・国家主席が目指すのは建国の父・毛沢東党主席(1893~1976)のような絶対的な存在だという。晩年の「文化大革命」(文革)で多くの冤罪(えんざい)、迫害の犠牲者を出したことから、現在の毛沢東主席は否定的に語られることが多い。しかし権力闘争の激しい中国で31年間も党トップの地位を維持してこられたのは、卓越した組織運営力、リーダーシップがあったればこその話。そのマネジメント術などを探った

常に多数派結成を意識、信じる政策は断行

天安門広場の毛沢東主席の肖像(北京市)

天安門広場の毛沢東主席の肖像(北京市)

 毛沢東には「天の一声」で独裁的に指示してきたという印象が強い。しかし東洋学園大の朱建栄教授は「党内コンセンサスを重視し、常に多数派をバックに方針決定していた」と指摘する。もっともそれは党内バランスに配慮したり多数派に譲歩したりしていたという意味ではない。自らが信じる政策は断固として実現する「コンセンサス重視の独裁」というべき進め方が毛沢東の政治手法だった。

 党内掌握へ向けての第一歩となった1935年の遵義会議では政治局員以外の軍団幹部を多数参加させることで指導部一新を図り、66年に文革を発動した際も人民解放軍の協力を受けて相手陣営をけん制したり、自派の中央委員を空路北京に送り込んだりなどして多数派を握り、ライバルである劉少奇国家主席の降格を実現したという。常に「数による表決」を意識していた毛沢東が、自らのマネジメント術を駆使した典型的なケースが50年、朝鮮戦争の参戦を決めた際の手法だと朱教授は語る。

 朝鮮戦争は同年6月、南北統一に向けて北朝鮮の金日成首相がスターリン・ソ連(現ロシア)首相の承認の下に開戦し、当初は北朝鮮が優勢だった。一方、毛沢東は戦争開始に消極的だったとされる。中華人民共和国は前年に成立したばかりで新国家建設の内政問題が山積していたからだ。しかし国連決議による韓国支援、台湾防衛への第7艦隊派遣などから参戦に傾いていく。朝鮮、台湾、インドシナの3ルートから中国に侵攻する米軍の戦略を見抜いたからだという。

閲覧履歴

    クリッピングした記事

    会員登録後、気になる記事をクリッピングできます。