天下人たちのマネジメント術

毛沢東、30代に受けた6回の「左遷」

記事保存

日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。

現場を知るリーダーは指示が細かい

 34年10月、中国共産党は国民党政府からの攻撃に耐えきれず、瑞金の本拠地から放棄し「長征」に出発する。約8万人の兵力は約2カ月で3万人に激減した。翌年1月に毛沢東は張、王らとはかって「遵義会議」を開催させ、指導グループだった博古、オットー(ドイツ人の軍事顧問)らを一新した。これまでは毛沢東は遵義会議で党内の全権を握ったとされる。しかし現在では、単独で共産党を指導できるほどの場ではなかったという説が有力だ。毛沢東は政治局常務委員として復活した。

 その後、政治的には当時の盟友・張聞天が主導権を握り、毛沢東は周恩来、王稼祥との3人で軍事指導をすることになったという。徐々に周恩来から軍権を奪っていき。最終的には軍権を1人で確立することができた。当時の中国の状況は共産党と国民党との対立だけではない。31年には日中戦争への導火線となる「満州事変」が起きており、国際的にも33年にはドイツでヒトラー政権が成立していた。朱建栄教授は「めまぐるしく変化する情勢の中で『現場主義』を貫いたことが毛沢東が復活できた理由だった」と結論づける。

 ところで現場を知るリーダーは指示が細かい。東洋的な「大人」に見える毛沢東も例外では無かった。朱建栄教授は「中国のリーダーは細かいところを自分で決めるタイプと信頼する部下と相談しながら決めるタイプがあるが、重大な決定に関してはいずれも他人任せではない」と話す。前者は鄧小平、後者が毛沢東だろう。典型的なのが朝鮮戦争参戦のケースだ。

 共産党政治局の支持を「1対2対7」の圧倒的な不利から熟練の党内操縦で形成を覆して参戦に決定させた毛沢東だったが、すぐに大きなカベに当たった。同じ共産主義陣営にありながらのソ連空軍の不参加だ。ソ連のスターリン首相は「中ソ友好同盟条約」で中国が侵略された場合は空軍を出動させると約束したものの、朝鮮戦争では米ソ開戦につながりそうな動きは極力回避した。朝鮮戦争はもともとソ連が北朝鮮に了解を与えたために起きた戦争だ。派遣司令官の彭徳懐らは激怒し対ソ不信感を強めたという。

 毛沢東は周恩来首相をスターリンとの談判にモスクワへ派遣する一方、一時出兵計画を凍結した。空軍の援護を受けられない派遣軍将校の不満をなだめる「ガス抜き」の狙いがあったという。さらに北朝鮮側の防御ラインを下げるなど計画を練り直した。出兵期日を早めたり戻したり、朝鮮半島内での司令本部の場所を変更させたりと、きめ細かく作戦を変更したという。指示の出し方は不規則・強引でもあり、意志の疎通が混乱する原因にもなりかねなかった。しかし周恩来ら当時の指導者層はこうした毛沢東の方法に慣れており、恐れていた命令伝達ミスなどは生じなかったようだ。情勢の変化に対応して計画を変更し一瞬の戦機をつかむのが毛沢東の政策決定方式だったと朱建栄教授は分析している。

(松本治人)

キーワード:経営、管理職、企画、人事、人材、経営層

閲覧履歴

    クリッピングした記事

    会員登録後、気になる記事をクリッピングできます。