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毛沢東、30代に受けた6回の「左遷」

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帰国留学生組との対立で2年間の挫折

北京市の「毛主席記念堂」の前に建つモニュメント

北京市の「毛主席記念堂」の前に建つモニュメント

 ただいくら戦果を挙げても上海の共産党指導部から見て毛沢東は地域の一代表に過ぎない。朱建栄教授は「例えれば共産党中央は上海に拠点を置く本社だが弾圧を受け破産の危機。一方、毛沢東の地方子会社は着実に業績を伸ばしている状況」だったという。さらに当時はソ連(当時)の第3インターナショナル(コミンテルン)が世界の共産主義運動を指導していた。そのソ連で共産主義理論を学び、積極攻撃で都市部での権力を急ぎたい帰国留学生組は、いわば外資系本社と太い人脈を持つエリート社員が中国子会社に出向した形。地方根拠地の実情を重視する毛沢東とは描く戦略が違っていた。

 31年11月に江西省瑞金で樹立した「中華ソビエト共和国臨時政府」主席に毛沢東が選ばれたのは、軍権から遠ざけようとする棚上げの狙いがあったという。翌年1月には作戦方針を巡って毛沢東が病気療養に追い込まれる。5度目の挫折だ。この時もすぐ復帰したものの、続く6度目の左遷は決定的なダメージとなった。同年10月の「寧都会議」で毛沢東は軍権を剥奪され、約2年間実権を失った。

 都市vs地方、帰国留学生vs国内土着派、積極攻撃vs持久戦といった対立軸のほかに、左遷には指導者としての毛沢東の性格も影響していた。高圧的な態度で気性が荒く、言葉も冷たく、方針決定の際には独断専攻的だったという。周恩来も名前を伏せながら「勝手にしゃべりまくり際限がない」などと批判している。軍事的には才能を発揮したが、30代の毛沢東は政治的に未熟だったわけだ。

 一方、朱建栄教授は「この左遷が結果的に毛沢東にはプラスに働いた」と指摘する。独断的な態度を改め「相手を説得して自分に同調させる」テクニックを身に付けた。さらに疎遠だった帰国留学生組とも親交を持つようにした。具体的には党リーダーの博古と距離を置く張聞天、王稼祥といったメンバーだ。いずれも帰国留学生だが、主流派を形成していたメンバーの間にも分裂の目があったのを毛沢東は見逃さなかった。もちろん朱徳、彭徳懐、林彪といった井崗山以来の軍内の人脈とのつながりも維持した。朱建栄教授は当時の共産党内における紅軍の存在を「現代のメーカーにおける主力工場」と例える。毛沢東は「ものづくり」の現場も技術者も直接知っていたのが強みだった。全国的に圧倒的に不利な状況にもかかわらず党勢を拡大できたのは毛沢東の地域だけだった。

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